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地名の由来
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[更新記録]
・03/10/24 
地図(1872年発行)を追加



真田山 所在地:真田山公園:天王寺区真田山町
      宰相山:天王寺区空掘町、玉造本町
      明星学園:天王寺区餌差町
最寄駅:JR環状線「玉造」下車、玉造筋を南へ、バス停「真田山」を西へ、
真田山は1614年(慶長19年)大阪冬の陣の際、大阪城の弱点とされる南方面の防御を強化するため、大阪方の真田幸村が築いた出丸で、現明星学園付近にあったとする説や明星学園の東側にある宰相山や現在の真田山とする説があるが、江戸時代の古地図から見ても「圓珠庵」の東北、「明星学園付近」説がもっとも有力であると思われる。
 元禄年間(1688〜1704年)の「大坂三郷町絵図」では、『真田出丸跡』と記されているが、1752年(宝暦2年)版の「天王寺管内地図」及び1759年(宝暦9年)版の「摂州大坂画図」には『真田山』と見える。

[参考資料] 『日本歴史地名体系』大阪府の地名編 平凡社

真田山町にある旧第4騎兵連隊の忠魂碑
真田山公園 現在の真田山町はほぼ全域が公園となっている。
写真は真田山公園管理事務所前にある旧第4騎兵連隊の忠魂碑。第4騎兵連隊は1889年(明治22年)に新設され、1932年(昭和7年)に堺に移転されるまで、現在の真田山公園全域に置かれた。この忠魂碑は碑文によると堺に移転した翌年の1933年(昭和8年)に建てられている。

宰相山の「真田山旧陸軍墓地」
宰相山旧陸軍墓地
写真は宰相山にある「真田山旧陸軍墓地」の一角。
広大な墓地(約17、700平米)には4、800余柱の墓標が整然と並び、納骨堂には、43、000余柱の遺骨をまつる。この墓地にある碑文には、『この地が大阪城の出丸の「真田山」であり、真田幸村が徳川家康を向え撃った古戦場である』と説明されているが、この出典は「摂津名所図会」に「(宰相山は)世に真田山といふ、元和の頃、真田の塁ここにありしぞ」とあるように、宰相山も俗に「真田山」と呼ばれていた。

真田山頂上と推定される付近  
明星学園 摂津八十八ヶ所11番札所の「善福寺」から明星学園の方向を望む。善福寺や明星学園を含む一角は一つの丘となっており、丘の頂上付近に校舎が見える。

明治5年発行の大阪市内地図
真田山地図
右の地図は1872年(明治5年)発行の「大阪市内地図」の真田山周辺の拡大図。この地図では明星学園の場所が「真田山」となっている。

『摂津八十八ヶ所霊場』で確認できる寺院を枠で囲った
「真田山」の上は「鏡如庵」(11番札所「善福寺」)、
右下は12番札所の「興徳寺」、左下は15番札所「圓珠庵」。圓珠庵の下に「観音院」とあるのは、現高津高校前に移転する前の16番札所の「観音寺」の前身。


地名-005/TTL-088

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