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所在地:大阪市天王寺区空掘町
最寄駅:JR環状線「玉造」下車、西へ約700M、明星学園北側 |
当寺は、高野山岩本院法資法運が、「大阪夏の陣」の戦死者の霊を弔うために開創されたと伝わる。 創建当初は「鏡如庵大師堂」と称し、浪速大師巡り(摂津八十八ヶ所巡りの前身で13ヶ所程度を巡る)の道順にあり、特に21日の弘法大師の縁日には大変な賑わいだったと伝えられる。
1834年(天保5年)土井利位が大阪城代として赴任、この近くに居を構え、当庵の弘法大師に深く帰依され、以来「土井殿のお大師様」と呼ばるようになり、それが転訛し「どんどろ大師」となったということである。
1873年(明治6年)の廃仏毀釈で一時廃庵となり、1879年(明治12年)「鏡如寺」として再建したが、寺運は振るわなかった。
その後、篤志家によって寺地を回復し、1909年(明治42年)に豊能郡東能勢村にあった「善福寺」を本尊と共に移転し、「どんどろ大師 善福寺」と改称し、現在に至っている。
また、歌舞伎でおなじみの「傾城阿波の鳴門」で、「どんどろ大師の場」にも描かれ、お弓、お鶴の母子再会の場としても有名である。 |
[参考資料] 『摂津国八十八ヶ所霊場案内記』 古寺顕彰会発行
『どんどろ大師善福寺』 善福寺パンフレット |
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この辺りはは小さな丘になっており、当院はその一番ふもとにある、この丘は大阪冬の陣の折、真田幸村が築いた出丸(真田丸)という説が有力である。 |
山門を入ったところが、階段になっており、本堂は2階にある。 |
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境内にある墓地の一角を占める勝軍地蔵尊。この地蔵尊は日露戦争の折の戦病死者の慰霊のため1907年(明治40年)に建立された。 |
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摂津八十八ヶ所霊場 |
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[2003年10月5日参拝]] |
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