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所在地:大阪市天王寺区餌差町
最寄駅:JR環状線「玉造」下車、西へ「善福寺」南へ約100M
明星学園東側 |
当山の縁起は聖徳太子が在世中に法円坂に「薬師院」として草創と伝えられるが詳細は不明。
天平年間(729〜49年)行基菩薩によって再建された畿内49ヶ院の一つである。行基菩薩が原野を拓かんとして、この地で薬師如来を発掘して、別に木造を刻しこれを本尊として一宇を創建、「薬師院」とした。
天文(1532〜55年)の兵火にあったが、天正年間(1573〜92年)に復興したという歴史がある。
大阪夏の陣後、松平忠明が大阪の町の発展と城の防衛線の再整備のため、市内に分散していた寺院を、当時の小橋村、高津村、天満村の3ヶ所に集めたとき、小橋村の現在地に「興徳寺」と寺号を改め、再建した。
1912年(大正元年)失火により本堂を焼失し、その後復興するも、太平洋戦争の空襲で山門以外の諸堂を焼失した。現在の堂宇は戦後の再建になるものである。
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[参考資料] 『摂津国八十八ヶ所霊場案内記』 古寺顕彰会発行
『古寺名刹大辞典』金岡秀友編 東京堂出版社 |
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この山門は当院が1945年(昭和20年)の空襲を受けたとき、難を逃れた唯一の建物との事。
扉の内側には焼夷弾で焼け焦げた後が生々しく残っている。
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手入れの行き届いた境内と本堂。
本堂は戦後の再建。戦災で廃絶の危機にあった当寺を、本山から入られた先代住職が、つてを頼って檀家を探し、その檀家から情報で次の檀家を探すということを続けられ、徐々に檀家も戻り、これらの檀家の協力もあり、現在の姿に新築再建出来たとの事であった。 |
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1989年(平成元年)建立の准低観音像。10M以上あり、塀の外からでも拝むことが出来る。。 |
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摂津八十八ヶ所霊場 |
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[2003年10月5日参拝] |
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