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所在地:所在地:八尾市服部川
最寄駅:近鉄信貴線「服部川」下車、南東へ徒歩で約20分
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八尾市服部川、高安山の麓、河内33ヶ所観音霊場の客番・光明寺の前の道を更に登って行くと、神光寺(じんこうじ)に到る。この神光寺の墓地には、江戸時代の大坂を代表する私塾である「含翠堂」や
「懐徳堂」の創始者達の墓碑がある。
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[参考資料] 『大阪人物辞典』 三善貞司編 清文堂出版社 |
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神光寺の山門(左側)と本堂(右側)。神光寺は曹洞宗蔭涼寺末で、医王山薬師院神光寺と称する。現在の建物は享保年間(1716〜36年)に万徹和尚の再建と伝える。
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山門の前に建つ石碑。碑文は
『懐徳書院学主 三宅万年・同春楼
同 設立同志 中村良斎・長崎黙淵 墓所
含翠堂創学者 土橋誠斎・井上赤水』
と彫られている。 |
高安古墳群 |
三宅石庵の墓 |
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墓地の中央にある古墳。この辺り一帯の古墳は高安古墳群と通称され、6世紀後半に築かれた後期横穴式石室古墳の群集地で、約200基を数え、府下最大の遺跡地でもある。
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懐徳堂初代学主の三宅石庵の墓。墓標には「万年先生三宅君之墓」とある。
1665年(寛文5年)生まれ、1730年(享保15年)66歳で没。石庵の学風は折衷派と呼ばれ、「鵺(ぬえ)学問」とも揶揄されたが、現実主義であったかも知れない。 |
三宅春楼の墓 |
長崎黙淵と中村良斎の墓 |
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懐徳堂3代学主の三宅春楼の墓。墓標には「春楼先生之墓」とある。春楼は1712年(正徳2年)生まれ、石庵の子供で、47歳で学主に就任した。
春楼は学主の役柄は無難にこなしたが、懐徳堂の隣りに薬屋を営み、売薬業に力を入れたため、彼が学主を勤めた25年間は懐徳堂の衰退の時期でもあったといわれる。1782年(天明2年)71歳で没。 |
懐徳堂を創立した5同志の内の、長崎黙淵(右側)と中村良斎(左側)の墓が並んで建てられている。
2人共、三宅石庵に師事し、懐徳堂建設に尽力した。
長崎黙淵(克之)は通称舟橋屋四郎兵衛。生没年不明。中村良斎は通称三星屋武右衛門。1673年(延宝元年)生まれ、1732年(享保17年)60歳で没。
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土橋友直の墓 |
井上赤水の墓 |
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平野・含翠塾の創設に尽力した土橋友直(つちはし)の墓。土橋家一族の墓の中にあり、「土橋誠斎之墓」としるされている。
1685年(貞享2年)和泉国貝塚寺内の名家三宅友政の子に生まれた。1698年(元禄11年)平野7名家の三上家を継ぎ、1750年(宝永2年)同じく7名家の土橋家を継いだ。1730年(享保15年)46歳で没。 |
井上赤水(左側)の墓。墓標は「赤水先生之墓」
右側の墓標は「順静婦之墓」とあり、彼の妻の墓と思われる。井上正臣(赤水は号)は平野郷の人で儒者、生没年不明。
土橋友直らが平野郷で老松堂(後の含翠堂)を開いた時、赤水の自宅を講舎とし、自らも講義を行った。
後には、懐徳堂の助教授も勤めた。 |