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所在地:
「顕孝庵」:大阪市中央区中寺町2丁目
鴻池本宅跡:大阪市中央区今橋2丁目
鴻池本宅移築先:奈良市鳥見町1丁目 |
鴻池家は尼子氏の家臣山中鹿之介幸盛を遠祖とし、その次男幸元(通称新右衛門、新六)を始祖としている。 1578年(天正6年)幸元は遠縁を頼って摂津・川辺郡鴻池村(現・伊丹市)に住みつき、酒造りを始めた。
1600年(慶長5年)に双白澄酒(清酒)の製法を初めて発見したが、これは、下男が叱られた腹いせに濁酒のなかに灰汁を投込み、偶然に生まれたのが最初だという。
また、清酒の江戸送りの成功により、海運業にも乗り出し、鴻池家繁栄の基礎を築いたといわれる。
後の鴻池財閥につながる大阪・今橋の鴻池家は、幸元の八男、善右衛門(山中正成)が初代当主で、三代目の 善右衛門(山中宗利)のときに飛躍をとげ、現在の東大阪市鴻池新田の開発・経営も手がけている。
この頃から 鴻池は初期の酒造・海運業・商品取引から大名貨を中心とする両替業を専業とするようになり、ますます身代を大きくし、大坂随一の両替商となった。
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[参考資料] 『大阪人物辞典』 三善貞司編 清文堂出版社 |
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大阪市中央区中寺町にある「顕孝庵」。
この寺院は元は玉泉寺といっていたが、廃寺となっていたのを1661年(寛文元年)鴻池家が一族の菩提寺として復興し、寺名も改められた。 |
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境内の大半が、鴻池一族の墓で埋め尽くされ、見るものを圧倒する。南北六列(右側写真)と奥の塀に沿って東西一列(左側の写真)に並ぶ五輪塔は70数基もあるとのことで、江戸時代の大坂を代表する豪商であったことが実感として伝わってくる。 |
山中幸元(新六)の墓。
鴻池の始祖。父は尼子10勇士のひとり山中鹿之助。
1570年(元亀元年)生まれ。
父の鹿之助は毛利家に滅ぼされた主家尼子家の再興に命を懸けたが、1577年(天正5年)別所長春に破れ、討ち死にする。当時7歳だった幸元は鴻池村の大叔父にあたる山野信直に匿われた。伊丹の醸造家に奉公し、酒造りの技術を身に付け、「鴻池山中屋」という酒店を起こした。それまでの酒は濁り酒だったが、彼が澄み酒(清酒)を作り出したといわれている。1619年(元和元年)大坂内久宝寺(現大阪市中央区)に移り、酒造に加え海運業は諸藩の蔵米の大坂廻送も引き受け事業を拡大している。
手がけた事業が次々と大成功を収めたのにもかかわらず、実生活はまことにつつましかったと言われる。1650年(慶安3年)81歳で没。
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初代鴻池善右衛門(山中正成)の墓(中央)。新六の8男。1608年(慶長13年)生まれ。
1650年(慶安3年)家督を継ぎ、1656年(明暦2年)初めて両替商を開業。飛躍的に業績を伸ばした。1670年(寛文10年)息子の喜右衛門(山中之宗)の名で、「十人両替」の一人となり、帯刀を許された。1674年(延宝2年)には内久宝寺より今橋に両替部門を移し、本拠とした。1695年(元禄8年)87歳で他界する。 |
三代鴻池善右衛門(山中宗利)の墓。1667年(寛文7年)の生まれ。
父の2代喜右衛門(山中之宗)は初代が没した翌年の1696年(元禄9年)に早世したため、29歳で家督を継いだ。
両替商の経営に力をいれ、大名貸は32藩に達し、巨富を得た。蓄積した1万両を投じ、鴻池新田を開発。鴻池家は宗利の時代に基盤が完成した。1736年(元文元年)69歳で没。
尚、懐徳堂発起人の1人鴻池又四郎(山中宗古)は宗利の弟である。 |
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鴻池家本宅跡 |
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大阪市中央区今橋2丁目「大阪美術クラブ」前にある「鴻池家本宅跡」の碑。 |
奈良市内に移築されている旧鴻池家本宅の表屋。
大塩の乱の時に焼き討ちに遭い大きなダメージを受け、その後建て直されている。現在地(個人宅)には1980年(昭和55年)に移築されている。 |