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所在地:
明誠舎跡:大阪市中央区島之内1丁目
泊園書院跡:大阪市中央区淡路町1丁目
百園塾跡:大阪市中央区上本町西5丁目
双松岡学舎跡:大阪市福島区福島1丁目
玉生堂跡:大阪市西区南堀江3丁目 |
大阪市内にある私塾跡の石碑です。
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心学明誠舎跡 |
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大阪市中央区島之内1丁目、堺筋に面して建てられている「心学明誠舎跡」の碑。
心学は石田梅岩(1685〜1744年)が、1729年(享保14年)京都で 唱えた庶民を対象とした教育運動である。人間としての普遍的道徳を、平易な道話の形式で講義したので非常な人気を集め、全国に広がった。
大坂の明誠舎は、梅岩の孫弟子の大坂町人三木屋太兵衛こと井上宗甫によって1785年(天明5年)に開かれたもので、1938年(昭和13年)まで当地にあった。 |
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泊園書院跡 |
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大阪市中央区淡路町1丁目にある「泊園書院跡」の碑。
泊園書院は近世大阪の学問所で、中井一族による懐徳堂、緒方洪庵の適塾と並び称された私塾である。
藤沢東がいが1825年(文政8年)中船場町に漢学塾を開いた。 一時中断はあるがその子、南岳が跡を継ぎ、孫の黄鵠・黄坡ら4代、140年にわたって主宰され、大阪の文教発展に大きく貢献した。
その間に蓄積された2万冊余の蔵書は、現在、関西大学に泊園文庫として保存されている。
東がいの[がい]の字は[田偏に亥]。
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百園塾址 |
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大阪市中央区上本町西5丁目にある「敷田年治先生百園塾址」の碑。敷田年治は近世大坂国学界の逸材と言われた人物。
1817年(文化17年)豊前・敷田村に生まれる。
1853年(嘉永6年)江戸に遊学し、「和学講談所」の教授となる。後年、現在の皇學館大学の創設に関る。教頭となり、伊勢に赴任するが、病により河内に戻り、
1888年(明治21年)大阪堀江に私塾「百園塾」を開く。
著書は「古事記標註」、「国史姓名録」、など。
1902年(明治35年) 85歳の天寿を全うした。
敷田年治の孫にあたる住吉大社
宮司の敷田年博氏の揮毫による
碑文が傍に建てられている。
この地には、1897年(明治30年)
移ったとある。 |
双松岡学舎跡 |
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大阪市福島区福島1丁目、地方合同庁舎前の田蓑橋詰に建っている「双松岡(そうしょうこう)」の石碑。
双松岡学舎は、松本奎堂(けいどう)が、1861年(文久元年)昌平黌の同学、松林廉之助、岡千仞らと創設した。(塾の名は松本・松岡の2人の松と岡から採っている) 尊皇攘夷を鼓吹し、倒幕運動家の集合場所という疑いから、大坂町奉行所にも危険視され、翌年の文久2年、わずか半年で閉鎖されている。
碑は1943年(昭和18年)の建立。
松本奎堂:1832年(天保2年)三河・刈谷に生まれる。昌平黌に学び、1859年(安政6年)名古屋石町で塾を開いた後、大坂に移った。
1863年(文久3年)8月、孝明天皇大和行幸の詔が出たのを機に藤本鉄石、吉村寅太郎らと天誅組を組織して総裁となり、侍従中山忠光を奉じて出京したが、 政変によって形勢急変し、行幸は中止となった。
紀伊、彦根藩兵により追討され、十津川郷に南下し郷士と農兵の参加を募った。しかし諸藩兵の攻撃をうけ、吉野郡鷲家口で自刃した。享年33歳であった。 |
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玉生堂跡 |
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大阪市西区南堀江3丁目、高台橋公園内に建つ「藤井藍田 玉生堂跡」の石碑。
1816年(文化13年)大坂で生まれた藤井藍田は文人で勤皇志士であった。
家業の呉服と藍を商う「綿屋」を継ぎながら、その傍ら
田能村竹田に画を学び、広瀬淡窓に詩文を学んだ。
国事に芽生えた藍田は勤皇の志士と交わり、長州・薩摩を巡歴。1856年(安政3年)帰阪後、この地に私塾玉生堂を開いた。塾は倒幕の志士の溜まり場となっていたため、1865年(慶応元年)新撰組につかまり、天王寺区の万福寺に幽霊され、獄中にて没した。
墓は天王寺区の統国寺にある。
(藍田の経歴は「現地解説板:大阪市教育委員会」による) |