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所在地:大阪市天王寺区茶臼山町「[統国寺」
最寄駅:JR環状線[天王寺]下車、[阿部野橋」たもと、谷町筋を
北へ、約300M、西入る |
藤井藍田は1816年(文化13年)大坂に生まれる。幼名平三郎、名は尚徳。父は阿波の人で、大坂に出て南本町で呉服と藍を商う「綿屋」を営んでいた。父は藍田の幼い頃、流行病で病死、店は叔父治兵衛が取り仕切っていた。
藍田は家業を受け継ぐが叔父と肌が合わず、家業にそっぽを向き学問に熱中した。画を中井藍江と田能村竹田、書を八木巽処に学び、広瀬旭荘には漢・儒学を学んだが、旭荘からは尊皇攘夷思想を吹き込まれ、その思想的影響を受けた。勤王の志が深く、国事に目覚め、薩摩・長州などを遊歴、勤王の志士と交友があったといわれる。
帰阪後、1857年(安政4年)に南堀江高台橋南詰東入北側に家塾「玉生堂」を開き、漢・儒学の教授を始めたが、諸国放浪中に知り合った勤王の志士達が出入りし、彼らのアジトとなり、幕府からは危険分子として睨まれていた。
こんな藍田を万福寺(現大阪市天王寺区下寺町)に屯所を置いていた新撰組が目をつけ、1865年(慶応元年)5月26日早朝、「玉生堂」に乱入、捕らわれの身となった。新撰組屯所の牢に入れられ拷問の末、牢死した。50歳であった。
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[参考資料] 『大阪人物辞典』 三善貞司編 清文堂出版社
『玉生堂跡 現地解説板』 大阪市教育委員会 |
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 |
入口にはこの寺に葬られている間長涯(重富)、藤井藍田、広瀬旭荘など有名人の名を記した石碑が建てられている。 |
統国寺は聖徳太子の創建と伝えられ、山号の和気山は和気清麻呂が当地に館を設け、大和川運河を開削した故事による。当山には、江戸中期の天文学者、間重富・重新父子の墓がある。 |
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手前が広瀬旭荘の墓。その奥に藍田夫妻の墓がある。 |
藍田の墓は境内の奥まったところにある。右側の写真が藍田夫妻の墓。藍田は「藍田居士之墓」、寿子夫人は「清涼岩崎氏之墓」とある。
夫人は藍田の死後は剃髪して尼になり、藍田のかっての同志達の援助を断り、近隣の子女に裁縫や書道を教え、生計を立てた。1874年(明治7年)50歳で没。 |
 |
藍田の墓の傍らに立つ顕彰碑。
碑文は藤澤南岳の撰による。この碑は1914年(大正3年)藍田に対し、正5位が追贈されたのを記念して建てられている。 |
大阪市西区南堀江3丁目「高台橋公園」内に建つ、玉生堂跡の碑。 |
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