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所在地:大阪市中央区生玉町 「齢延寺」境内
最寄駅:地下鉄谷町線「谷町9丁目」下車、生国魂神社の前の道を
南へ、源聖寺坂を下る手前の右側 |
近世大阪の学問所、「懐徳堂」や「梅花社」と並び称せられた「泊園書院」の創始者、藤澤東ガイとその一族の墓が、生玉町の齢延寺にある。(東ガイの[ガイ]の字は[田偏に亥])
藤澤東ガイは1794年(寛政6年)讃岐の安原に生まれた。9歳で荻生徂徠学者の中山城山に師事。
18歳で高松に開塾した。長崎に遊学の後、1825年(文政8年)大坂で「泊園書院」を開いた。
東ガイが開いた「泊園書院」はその子南岳が、そして南岳の子黄鵠(こうこく)、黄坡(こうは)と学統を継ぎ、125年にわたって主宰され、大阪の文教発展に大きく貢献したが、1949年(昭和24年)黄披の死でピリオドを打った。その間に蓄積された2万冊余の蔵書は、現在、関西大学に寄贈され「泊園文庫」として保存されている。
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[参考資料] 『生魂山 齢延寺』 齢延寺パンフレット
『大阪人物辞典』 三善貞司編 清文堂出版社 |
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齢延寺の山門。傍に「藤澤東ガイ先生墓所」の大きな石碑が建つ。
齢延寺は1623年(元和9年)僧義春が開創。 |
境内の一角にある藤澤一族の墓。
手前から東ガイ、南岳、黄鵠と並んで建つ。 |
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藤澤東ガイは「泊園」の名のとおり、精錬淡白、私欲のない生涯を生き、1864年(元治元年)70歳で没している。 |
藤澤南岳は25歳で高松藩の儒官となり、父東ガイが没後、一時途絶えていた「泊園書院」を1872年(明治5年)に復活、明治年間大阪漢学の拠点となった。1920年(大正9年)78歳で没した。
「通天閣」や小豆島の「寒霞溪」を名付けたと伝わる。 |
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東ガイらの墓とは、少し離れた本堂前の墓地に南岳の次男藤澤章次郎(黄坡)とその子藤澤桓夫*の墓がある。
「泊園書院」4代目を継いだ黄坡は、日本漢文学に足跡を残した学者である。関西大学教授。名誉教授(初代)。1948年(昭和23年)72歳没。
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藤澤黄鵠は南岳の長男。(明治36年)29歳で家督を継ぎ、「泊園書院」で子弟に教授。一時衆議院議員となるが、桂内閣の外交政策を批判して物議をかもし、辞職した。1924年(大正13年)50歳で没した。 |
*藤澤桓夫は大阪を代表する作家。1904年(明治37年)大阪市生まれ。旧制大阪高校時代から文学に取り付かれ、東京帝国大学に進学後はプロレタリア文学運動に参加。病を得て、療養後は大阪に戻り、文芸活動を再開。新聞・雑誌等の連載小説で数々のヒット作品を生み出した。1989年(平成元年)84歳で没。 |