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有名人・文化人墓所
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石田梅岩の墓 所在地:大阪市中央区下寺1丁目 「大蓮寺」
最寄駅:地下鉄谷町線「谷町9丁目」下車、千日前通を西へ
松屋町筋を南へすぐ東側(生国魂神社西側
石田梅岩は、江戸中・後期の心学者。その教えは「心学」または「石門心学」と呼ばれ、民衆の間で支持され、全国的に広まった。心学は日本固有の神道を軸として、儒教や仏教の長所を自由に摂取し、教理を日常生活に結びつけ、人としての正しい生き方をを説くものであり、町人や農民に大きな思想的影響を与えた。
 梅岩は、「商人の利は武士の禄と同じである」と説き、商行為の正当性を強調した。大坂の商人達も梅岩やその門下生の手島堵庵を度々招いて聴講し、これが大阪商人哲学の原点といわれる「心学明誠舎」への設立へつながった。
梅岩は、1685年(貞享2年)丹波国桑田郡東県村(現亀岡市東別院町)の百姓の子として生まれた。名は興長(おきなが)、通称は勘平といい、梅岩は号である。1703年(元禄16年)京都の商家に奉公にでて、独学で神道、儒学を学ぶ。
 43歳の時、黄檗宗の禅師小栗了雲に師事して悟りをひらき、1729年(享保14年)45歳で、京都・車屋町御池の借家で初めて塾を開いた。梅岩は、勤勉と倹約を自らが実践した人でもあった。その生活態度と信念一筋の生き様に敬服する者は多くいたといわれる。「負けるが勝ち」とは梅岩が説いた言葉ともいわれる。
 1744年(延享元年)60歳で没した。著書に『都鄙問答』、『斎家論』。墓は大阪市天王寺区の大蓮寺にあるが、これは供養墓で大阪の門下生達が建てた。本墓は京都・鳥辺野の延年寺にある。

[参考資料] 『大阪人物辞典』 三善貞司編 清文堂出版社
大蓮寺 松屋町筋に面した大蓮寺の山門。
大蓮寺は如意珠應山と号し、創建は1550年(天文19年)時の将軍足利義晴の三男・晴誉上人によって、足利家の大坂祈願所として開基された。
大坂33ヶ所観音霊場の第28番札所でもある。山門を入った正面に「大阪府立天王寺高校 開校の地」の石碑が建つ(茶色の碑)。
また、植込みの奥、九輪塔の横に建つ石碑は大坂を代表するの寺子屋「龍雲堂」の3代目学主、根来誠斎の顕彰碑。
境内の墓地に「石門心学先生之墓」が3基並んでいる。
中央が「石田梅岩先生之墓」。右側は門下生の「手島堵庵先生之墓」と左側は幕末から明治にかけての明誠舎の教師であった「岡本孝道先生之墓」(岡本孝道の墓は表面の破損がひどい)。
各々裏面には生年と没年が記されている。
手島堵庵:洛陽人享保3年戊戌夏5月13日生
       天明6年丙午春2月9日終 享年69歳
岡本孝道:大和南葛城郡葛城村大字五百家産
       (以下略)
       文政11年戊子10月2日生
       明治36年8月28日終 享年76歳 
石田梅岩の墓
心学明誠舎跡 大阪市中央区島之内1丁目、堺筋に面して建てられている「心学明誠舎跡」の碑
1790年(寛政元年)までには大坂の商人が中心となり、大坂市中には、この「明誠舎」のほか「静安舎」、「倚衡舎」、「恭寛舎」、「敦厚舎」が設けられ、互いに協力しその維持発展につとめ、心学の隆盛をもたらした。

文化人墓-032/TTL-316

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