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有名人・文化人墓所
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根来秀斎の墓 所在地:大阪市天王寺区下寺町1丁目 大蓮寺
最寄駅:近鉄or地下鉄千日前線「日本橋」下車、千日前通りを東へ、松屋町筋交差点を南へすぐ、東側
根来秀斎は1796年(寛政8年)紀州の生まれ。名は忠之、通称忠次郎、秀斎は号名。文政年間(1818〜30年)来坂し、御池通(西区)に寺子屋「龍雲堂」を開いた。
 教育方針は習字と算術に重きを置き、教材にも工夫を重ね、商家の子弟の実用に適したので、大いに繁盛。大坂で数多く在った寺子屋の中にあって、大坂を代表する寺子屋となった。
 秀斎の人となりは極めて質素で生涯木綿服以外を着用せず、寒中でも足袋を穿かなかった。また、親に孝行を尽くしたので、西町奉行所から表彰を受けている。1859年(安政6年)64歳で没している。
 「龍雲堂」は子孫の寛斎誠斎と続き、1909年(明治42年)まで存続した。

[参考資料] 『大阪人物辞典』 三善貞司編 清文堂出版社
大蓮寺山門 松屋町筋に面した大連寺。
この寺院は石田梅岩など教育関係者の墓が多い。
その関係か1896年(明治29年)大阪府第五尋常中学校(現天王寺高校)が開校されたところでもある。
根来秀斎の墓側面 根来秀斎の墓-1
根来秀斎の墓。墓標は「根来秀斎先之墓」とある。正面はそれほどでもないが側面と裏面はかなり剥離が進んでいる。
根来誠斎頌徳碑 大蓮寺境内に建つ「誠斎根来君頌徳碑」。1909年(明治42年)11月建立。
誠斎は名は忠次郎、誠斎は号。
祖父寛斎、父誠斎と3代続いた龍雲堂の学主。
碑文には「1862年(文久2年)9月、北堀江に生まれた。誠斎が病のため、1909年(明治42年)8月に龍雲堂を閉じるまで、28年間勤勉1日の如く勤めた。」とある。

文化人墓-047/TTL-472

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