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井原西鶴の墓へ
中井一族の墓  所在地:大阪市中央区上本町西4丁目 誓願寺内
最寄駅:近鉄「上本町」下車、上町筋を北へ約400M、左手にあり
中井家は、代々儒学を家業とし、江戸時代中期の1724年(享保9年)大坂の五人の有力町人の出資によって創設された私立学問所「懐徳堂」を1689年(明治2年)学制の改革で廃校となるまでの140余年にわたって経営した。
 中井家からは2代目(甃庵)、4代目(竹山)、5代目(碩果)、6代目(並河寒泉)と学主を務めている。(初代は三宅石庵、3代目はその子春楼が務めた)
 懐徳堂の学問は、初代学主三宅石庵の学風が「鵺(ぬえ)学問」と評されたように、朱子学を基本としながらも諸学の長所を柔軟に取り入れる点に特色があった。このような折衷的傾向は、非常に大阪的と言え、良い意味で、懐徳堂の自由で批判精神にみちた学風を形成していった。
 懐徳堂教育の在り方を示す定書「宝暦八年(1758年)定書」には、「書生の交りは、貴賤貧富を論ぜず、同輩と為すべき事」という規定が見え、学生相互の自律・自助を勧める内容となっている。また、受講生の謝礼は、五節句*ごとに銀一匁または二匁ずつ、ただし、貧しい者は紙一折、筆一対でもよいという緩やかなものであったといわれる。
*五節句:1月7日(人日:じんじつ)、3月3日(上巳:じょうし)、5月5日(端午)、7月7日(七夕)、9月9日(重陽:ちょうよう)
[中井家略系図]                ┌蕉圓
  中井竹庵ー養仙ー養元ー甃庵┬竹山┼碩果‥桐圓
                       |   └(女)ー並河寒泉
                       └履軒ー柚圓ー桐圓(碩果の養子となる)

[参考資料] 『懐徳堂と中井家』 懐徳堂・友の会事務局編(誓願寺で頂く)
誓願寺門前の石碑 中井竹庵の墓 中井養仙の墓
誓願寺の門前にある石碑。
「中井甃庵先生、竹山先生、履軒先生の墓。井原西鶴先生墓」とある。
中井竹庵の墓。中井一族の祖。
筑前黒田藩、芸州広島藩に仕えた後、浪人となり大坂に移る。
中井養仙の墓。竹庵の男子、播州竜野脇坂公に仕えたが、大坂に移り、医者を開業。甃庵は養仙の孫。
中井甃庵夫妻の墓 中井竹山夫妻の墓 中井履軒夫妻の墓
中井甃庵夫妻の墓。三宅石庵の門下に入り、「懐徳堂」開校時には塾頭となる。2代目学主として29年間、その発展に寝食を忘れ努めた。
中井竹山夫妻の墓。竹山は甃庵の長男。懐徳堂の4代目学主となり、江戸の昌平黌と並ぶ隆盛を極めた松平定信の諮問に答えるなど、対外的にも活躍した。 中井履軒夫妻の墓。履軒は甃庵の次男。兄竹山を支え、懐徳堂の黄金時代を築いた。後に私塾「水哉館」を開いた。
中井履軒夫妻の墓 中井碩果夫妻の墓 中井柚圓夫妻の墓
中井蕉圓夫妻の墓。蕉圓は竹山の4男。詩賦に抜きん出た才能を発揮したが、生来の病弱で、36歳で死去。 中井碩果夫妻の墓。碩果は竹山の5男。懐徳堂の5代目学主。 中井柚圓夫妻の墓。柚圓は履軒の男子。父の興した「水哉館」を引継ぐ。
中井桐圓夫妻の墓 並河寒泉夫妻の墓 ・主な人の生年と没年
当時としては長生きした人が多い
甃庵:1693年(元禄6年)
〜1758年(宝暦8年)66歳
竹山:1730年(享保15年)
〜1804年(文化元年)75歳
履軒:1732年(享保17年)
〜1817年(文化14年)86歳
蕉圓:1767年(明和4年)
〜1803年(享和3年)37歳
碩果:1771年(明和8年)
〜1840年(天保11年)70歳
桐圓:1823年(文政6年)
〜1881年(明治14年)59歳
寒泉:1797年(寛政9年)
〜1879年(明治12年)83歳
中井桐圓夫妻の墓。桐圓は柚圓の
3男として生まれるが、碩果の養子
となる。18歳で懐徳堂の学主に推
されるが、並河寒泉に譲る。
並河寒泉夫妻の墓。父並河尚誠は竹山の娘婿で、寒泉は碩果の甥に当たる。6代目学主として桐圓を助け、懐徳堂を支え、1869年(明治2年)懐徳堂史の幕を引いた。

文化人墓-026/TTL-249

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