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所在地:
「誓願寺墓地」:大阪市中央区区上本町西4丁目
「西鶴終焉之地」碑:大阪市中央区谷町3丁目 |
井原西鶴は本名を平山藤五といい、1642年(寛永19年)に大坂鑓屋町で生まれた(後年名乗った井原は母方の姓)。近松・芭蕉と並んで元禄文化の花を咲かせた西鶴は、西山宗因門下の俳諧師として知られ、1680年(延宝8年)生玉社別当南坊で、1昼夜ぶっ通しで4千句を独吟、さらに1684年(貞享元年)住吉大社で一昼夜に23,500句を詠む才能の持ち主であった。
この新記録樹立を機に西鶴の情熱は俳諧から、小説へと転向し、1682年(天和2年)小説の第1作『好色一代男』が、大阪の版元により初めて出版されたが好評であり、江戸でもベストセラーとなった。つづいて『日本永代蔵』、『世間胸算用』など鋭い観察と奔放な筆致で新天地を開いた。52歳を迎えた1693年(元禄6年)大坂鑓屋町の草庵で没した。その辞世は『人間50年の究り、それさへ 我にあまりたるに、ましてや 浮世の月 見過ごしにけり未二年』とある。
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[参考資料] 大阪市指定文化財ホームページなど |
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西鶴の墓がある誓願寺山門。戦災で本堂も繰りも焼けたため、一時途絶えた時期もあったが、毎年9月には「西鶴忌」が行われる。
ここ誓願寺境内には、大坂に於ける私立学問所「懐徳堂」を140年余にわたり経営し、江戸時代大坂の文教の発展に貢献した、中井一族の墓がある。 |
西鶴の墓は1887年(明治20年)を前後する頃、誓願寺境内の無縁墓に押し込められていたのが発見された。発見者は諸説あり、幸田露伴であるとも、朝日新聞記者の木崎好尚であるともいわれている。
墓は大阪市の指定文化財となっている。 |
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山門を入ったところに建てられている武田麟太郎の文学碑。彼の作品『井原西鶴』の一節が刻まれている。
小説『井原西鶴』は1937年(昭和12年)の作品で、病気の娘を見捨てて遊行する西鶴に、同じ大阪生まれの自分自身を重ねたところにできた作品で、本人はこれを私小説と呼んでいる。 |
西鶴終焉の地 |
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大阪市中央区谷町3丁目の交差点を少し南へ下った東側、谷町筋に面したところに「井原西鶴終焉之地」と辞世の歌を刻んだ石碑がある。この碑は西鶴没後300年を記念し、1993年(平成5年)9月25日(旧暦の8月10日)に西鶴文学会の手により建てられている。 |