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所在地:大阪市北区与力町 「善導寺」墓地
最寄駅:地下鉄「南森町」下車、堺筋を北へ、寺町通り『南森町イシカワビル』を東へ入る約250M、左側にあり |
山片蟠桃(やまがたばんとう)は江戸時代を代表する町人学者であるが、その合理的な思想は現在においても海外より高い評価を受けている。
1748年(寛延元年)播州加古川(現在の兵庫県高砂市米田町神爪)の小さな商家に生まれた。本名は長谷川氏。名は芳秀(よしひで)、通称小右衛門、別号有躬(ありみ)。
13歳の時、大坂に来て、今橋の両替屋河内屋の丁稚となるが、本ばかり読んで評判が悪く、暇を出されてしまったが、運良く、両替商升屋平右衛門に拾われた。当時、升屋の商いは大名への貸した金が焦付き傾いていたが、商才を発揮して主家升屋の再興に努力した。とくに大名貸商人としては仙台藩や豊後岡藩などの依頼を受け、それらの藩の財政再建に成功した。それらの功績により主家で親類扱いとなり、山片芳秀を名のるようになった。また、「蟠桃」という雅号は番頭をもじってつけたものといわれている。
蟠桃は升屋の番頭として活発な経済活動を行うかたわら、天文学、地理学、歴史、経済学、俗信の否定、医学などの広い分野において、独創的な意見を発表した学者でもある。
懐徳堂で中井竹山・履軒兄弟から儒学を、先事館で麻田剛立に天文暦学を学び、さらに中国や西洋より高価な本を取り寄せ、夢中で読み耽った。そして従来の狭い学界にとらわれぬ自由な思想を持つようになる。
彼の学問の集大成である『夢の代(しろ)』は54歳から書き始め、実に19年もかけて完成。晩年はほとんど失明しながら口述でこの大作を著した。『夢の代』が完成した1821年(文政4年)74歳で病没。
『地獄なし 極楽なし 我もなし ただあるものは 人と万物』、『神ほとけ 化け物もなし 世の中に 奇妙不思議の ことはなおなし』の辞世を2首残している。 |
『夢の代』は天文、地理、神代、歴代、制度、経済、経論、雑書、異端、無鬼(上・下)、雑論の12巻付録1巻からなっており、自然科学については、地動説を支持して独創的な宇宙論を展開し、近代医学の成果を紹介している。
書名は『論語』公冶長篇に宰予(我)が昼寝して孔子に叱られた故事に由来する。
商人として卓抜な経済論の展開だけでなく、応神以前の日本書紀の記載を神話として否定し、迷信の排撃や徹底した無鬼(無神)論など,江戸時代とは思われないような合理的な記述がみられる。本書の出版は明治以降になるが幕末までにすでに数十部の写本が流布しており、
数多くの読者が存在したと思われる。 |
なお、大阪府は作家・司馬遼太郎の提唱により、1982年度(昭和57年)より、近世大阪の生んだ世界的町人学者である山片蟠桃の存在をあらためて想起し、その名にちなんで、日本文化の国際通用性を高めた優秀な著作とその著者を顕彰するとともに、大阪の国際都市としての役割 と文化・学術の国際性を高めることを目的とし、「山片蟠桃賞」を設けているが、蟠桃の生まれ故郷の高砂市では蟠桃の銅像や顕彰碑が建てられているのに比べ、肝心の大阪にその類がないのはさびしい。
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[参考資料] 『大阪人物辞典』 三善貞司編 清文堂出版社 |
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善導寺は近松門左衛門の「曽根崎心中」に出てくる「大坂33観音霊場」の第8番霊場でもある。
お寺の前の通りは「寺町通り」ともいわれ、多くの寺院が軒を連ねており、「摂津88ヶ所霊場」第10番の宝珠院が1つ隣のブロックにある
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境内に「第8番長谷観世音霊場」の碑が建っていた。
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
合同墓(左から2基目)と並んで「長谷川氏墓」 (右から3基目)があったが、これは明治以降に建てられている。 |
山片蟠桃の墓は本堂の前にある無縁墓群の中にある。
合同墓でかなり痛んでいるが正面に10名、左側面に4名の名が確認できる。中央の宗文が蟠桃の戒名。 |
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本堂裏にある山片蟠桃の墓は新しく、上の写真の墓が先の大戦で戦災に遭い、痛んでしまったので、1974年(昭和49年)子孫の人が再建したもの。 |