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麻田剛立の墓 所在地:大阪市天王寺区夕陽丘町 「浄春寺」墓地
最寄駅:地下鉄谷町線「四天王寺前」下車、谷町筋「太平寺」の手前を西へ、口縄坂手前左手
麻田剛立(あさだごうりゅう)は天文・医学界に画期的な仕事を残した偉大な学者である。1734年(享保19年)豊後国杵築藩(現大分県杵築市)の儒者綾部安正の第4子として生まれた。幼名庄吉良、名は妥彰、璋菴と号した。
幼い頃から独学で天文学と医学を学び、1767年(明和4年)には杵築藩侯の侍医となった。しかし、天文学に熱中し、これの研究のため辞職を申し出たが許されず、1772年(安永元年)ごろに杵築藩を脱藩し大坂に入った。その後は麻田剛立と名を変え、大阪本町4丁目で医を業としながら研究を続けた。
 剛立の学風は漢訳西洋天文書の『崇禎暦書』をベースとし、理論を実測で確認するという近代的なもので、西洋よりはるかに劣る機器や技術で、ケプラーの第3法則と同じ法則を独自に発見したといわれる。彼の下には多くの弟子が集まり「麻田学派」と呼ばれる一派が形成された。主な弟子に高橋至時
山片蟠桃間重富らがいる。中井竹山・履軒兄弟三浦梅園とも交流した。
 1795年(寛政7年)、幕府は改暦のために剛立を招こうとしたが、性に合わないといって辞退し、門人の間重富と高橋至時を推薦している。
 剛立は生涯清貧に甘んじ、生活はつつましく一介の町医者として、1799年(寛政11年)5月に65歳で没した。その墓は浄春寺にある。 

[麻田剛立の学問の流れ]
麻田剛立 ─ 高橋至時 ─ 伊能忠敬、高橋景保
       ├  間 重富 ─ 橋本宗吉 ─ 中 天游 ─ 緒方洪庵 ─ 福沢諭吉、大村益次郎、大鳥圭介
       ├  山片蟠桃

[参考資料] 『大阪人物辞典』 三善貞司編 清文堂出版社
浄春寺山門 浄春寺の山門。
向かって左手に「 麻田剛立墓所」の碑が建っている。右手のずんぐりした碑は「芭蕉の供養墓」。
麻田剛立の墓 麻田剛立の墓の側面
浄春寺墓地にある「剛立麻田先生之墓」。
墓は新しいがこれは旧墓が空襲で痛んだため、1967年(昭和42年)に再建されている
麻田剛立の墓の側面。 
この墓は中井蕉園が撰文し、谷川祐の書になる顕彰文で4面ともびっしりと埋められている。
向かって右端は剛立の養子の立達(りゅうたつ)の墓。立達は1771年(明和8年)豊後の生まれ、父は剛立長兄の綾部妥胤。剛立に実子がなかったため、大坂に来て剛立の養子となり、家学を継いだ。
1827年(文政10年)1月56歳で没した。
麻田剛立(左)、養子の立建(右)の墓

文化人墓-011/TTL-158

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