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有名人・文化人墓所
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片山北海の墓 所在地:大阪市天王寺区城南寺町 梅松院
最寄駅:近鉄 「上本町」下車、上町筋を北へ約500M、東に入る
江戸中期の明和年間(1764〜72年)、大坂の文化人の交遊サロンとして大きな役割を果たした漢詩結社 『混沌社』の盟主である片山北海は1723年(享保8年)越後国弥彦村の農家に生まれている。
 1740年(元文5年)18歳で上京、自ら求めて宇野明霞に師事した。宇野明霞の死後、同門だった大坂の富商某の勧めで来坂、立売堀で開塾。塾名の「弧松館」は住まいの門の傍らに一本の松があったところから名付けられた。
 1765年(明和2年)佐々木魯庵田中鳴門葛子琴河野恕斎らと『混沌社』を発起、その盟主に推された。 その後、頼春水篠崎三島木村蒹葭堂菅野錢塘などが参加し、メンバーは非常に豪華な顔ぶれがそろっていた。
 その当時、 各地で作られた詩の結社の中では最も代表的な結社で、社友には儒者、医者、武士、商人等々幅広い分野からの参加で、在坂最大の文化人サロンとなった。
 北海本人は自分の書を著すを好まず、メモ程度しか取らなかったので、後の世に伝わる「北海文集」・「尺牘」・「詩集」・「混沌社詩稿」などは門人が編集したものである。
 1790年(寛政2年)9月逝去。城南寺町の梅松院に葬られた。享年68歳。

[参考資料] 『大阪人物辞典』 三善貞司編 清文堂出版社
松梅院山門 松梅院門前の石碑
梅松院の山門はモダンなデザインである。
山門の傍らに建つ2基の碑。「片山北海、入江昌喜墓所」「片山北海、入江長輔、入江石亭、薮鶴堂、薮長水、越智高洲、坂本葵園核先生墓所」とある。
片山北海の墓 北海の墓の裏面
片山北海の墓(左側)。
墓の側面と裏面には淡海竺常(おうみじんじょう)撰、篠崎三島書による碑文が彫られている(右側)。
淡海竺常:1719年(享保4年)〜1801年(享和元年)京五山の学僧。『煎茶訣』、『茶経詳説』など煎茶に関する著作がある。北海の同じく儒学を宇野士新(明霞)に学んだ同窓生である。

文化人墓-040/TTL-457

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