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所在地:
「大応寺」墓地:大阪市天王寺区餌差町
「兼葭堂邸跡」:大阪市西区北堀江4丁目 |
木村兼葭堂は江戸時代後期、大坂を代表する町人学者で、その博学多才さは大坂知の巨人と言われた。兼葭堂は1736年(元文元年)、大坂北堀江の大きな酒造家に生まれた。姓は木村、名孔恭、幼名小太郎、通称坪井屋吉右衛門、名は孔恭、字は世粛、号は巽斎(そんさい)、遜斎、兼葭堂など。
兼葭堂のいわれは自宅の井戸を掘った折、古い芦の根(ヒメヨシ:兼葭)が出てきたため、これは古歌で詠まれた浪華の芦であろうと喜び、芦に因み、自宅を兼葭堂と名づけ、好んで自分の号としても用いた。
幼い頃から絵画や文学が好きで、池大雅に山水を学び、11歳で片山北海の「混沌社」に入塾した。
また、本草学の第1人者小野蘭山の門下生になり、この世界でも一流の学者として評価されている。
兼葭堂は豊かな財力に物を言わせ、奇書・珍籍・書画・骨董を蒐集、彼の邸宅は図書館、博物館、資料館を兼ね、文化面での一大サロンとなった。 兼葭堂の温厚な人柄もあって、全国の文人・学者が彼のもとを訪れ、この交友の記録「兼葭堂日記」は当時の文人、学者の動向を知る貴重な資料となっている。
著書は「本草綱目解」、「奇貝図譜」、「日本山海名産図会」、「唐土名勝図会」、「銅器由来私考」、「巽斎詩集」など多数。1802年(享和2年)67歳で没した。墓は天王寺区餌差町の大応寺にある。
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[参考資料] 『大阪人物辞典』 三善貞司編 清文堂出版社 |
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大応寺の山門。傍の石碑には「兼葭堂墓所」とある。 |
一歩境内に入ると、モダンな本堂の建物が目に飛び込んでくる。 |
兼葭堂の墓は保護のためアクリルのケースで覆われている。
正面の文字「兼葭翁之墓」と側面の碑文は伊勢長島藩主増山雪斎の撰並書。兼葭堂の交友の広さを物語っている。 |
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兼葭堂の墓碑左側面(左側の写真))と右側面、裏面(右側の写真)。
写真では分かりづらいが、墓の3面にはびっしりと顕彰文が彫られている。墓はにひび割れが生じており、かなり痛んでいる。 |
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大阪市西区北堀江の「大阪中央図書館」南東角に建つ「木村兼葭堂邸跡」の碑。
実際の邸跡は約120m西にあったが、江戸時代における大坂随一の町人学者木村蒹葭堂邸の顕彰碑は、図書館の一隅に建てることこそふさわしいという観点で、1960年(昭和35年)まだ図書館が建設中だった現在地に建てられた。 |