|
所在地:大阪市生野区舎利寺1丁目 舎利尊勝寺
最寄駅:JR「桃谷」下車、市バス「杭全」行きで「生野消防署前」
下車、西へ入る約300M |
菅甘谷は大坂で始めて徂徠学を伝えた儒学者で、1690年(元禄3年)岸和田藩士府川家に生まれている。 名は晨耀、字は子旭、通称は小膳。幼い時から神童と言われ、父の友人の堀家の養子となり250石を給された。
江戸出府中に荻生徂徠の門下生となる。 徂徠は彼の才能を見抜き、経学と古文辞を徹底的に教授したと伝わる。
その後病気のため職を辞し大坂に移り、養家の堀氏の旧姓が菅原氏であったところから、一字をとって菅氏を名乗った。靭本町で塾を開き以来、約20年間にわたり徂徠学を説いた。
甘谷の門下生には田中鳴門、細合半斎、義端、岡魯庵、篠崎三島、葛子琴、藤川東園、兄楽郊、 片山北海 など多くの人材を輩出した。これらの人はいずれも詩文に長じ、後に「混沌社」の中心人物となっている。
1764年(明和元年)3月、75歳で没した。墓は舎利尊勝寺(生野区舎利寺)にある。
|
[参考資料] 『大阪人物辞典』 三善貞司編 清文堂出版社 |
|
舎利尊勝寺の山門。
|
|
|
菅甘谷の墓(左側)とその裏面の碑文。墓誌は甘谷の門下生の兄楽郊の撰文になる。墓の状態は正面と裏面は剥離は免れているが、左右の側面は殆どの部分が剥離している。 |
|
|
舎利尊勝寺の境内には西国三十三カ所観音霊場が巨石で再現されているが、それ以外にも大きな石仏が多くある。
左側の写真:閻魔王(地蔵菩薩)、五道転輪王(阿弥陀如来)、宗帝王(文殊菩薩)、初江王(釈迦如来)、秦広王(大日如来)など冥土の判者(本地仏)が並んで建てられている。
右側の写真:仏足石塔。傍らの看板に寄進者が「仏像を造るのは畏れ多いので仏の足を作って拝した」と記している。 |