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霊場参拝
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第18番
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信貴山朝護孫子寺 所在地:奈良県生駒郡平群町信貴山
最寄駅:JR大和路線「王寺」OR近鉄「信貴山下」下車、奈良交通バス「信貴山」行き、終点で下車
通常、大阪や奈良の人が「信貴山」と言えば、山の名を指すことはなく「朝護孫子寺」を指すことが一般的であり、山号が寺院の名として通用している。
 朝護孫子寺の開基は聖徳太子物部守屋との戦いに望み、ここ信貴山で毘沙門天王を感得し、自ら天王を刻み、寺院を建立し祀ったことに始まるとされ、信貴山の名はこのとき、聖徳太子が信ずべき、貴ぶべき山「信貴山」と名付けと伝わる。
 903年(延喜2年)当山中興命蓮上人が醍醐天皇の病気平癒を祈願したところ、毘沙門天の霊験はあらたかで天皇は病気が全快したことにより「朝護孫子寺」の勅号を賜った。
本尊の毘沙門天は多聞天とも呼ばれ、仏法守護神であり、多くの武将が帰依したが、中でも楠木正成の母が当山に祈願して生まれた正成は幼名を多聞丸と名付けた話は有名である。
 中世には山岳密教の道場として栄え、多くの堂塔坊舎があったが、1577年(天正5年)織田信長松永久秀の守る信貴山城を攻めた際、多くの堂宇が焼失したが、その後豊臣秀頼により再建されている。
 明治初年の廃仏毀釈で寺院は荒廃したが、先人たちの努力により法灯は守られ、現在の隆盛を見るに至っている。
 なお、朝護孫子寺に伝わる国宝『信貴山縁起絵巻』は、平安時代後期、12世紀の成立とされ、日本の絵巻物の代表作とされている。普段は霊宝殿で複製が展示されているが、(原本は奈良国立博物館に寄託されている)偶々参拝した時は特別展が開催中で、実物を見ることが出来たのは幸運であった。

[参考資料] 『現地説明板』
         『役行者零隻札所巡礼』役行者零隻札所会編 朱鷺書房
朝護孫子寺赤門 かやの木稲荷大明神
通称赤門。
門の右側の柱には「総本山 信貴山」と掲げられている。
かやの木稲荷大明神。かやの木は樹齢1500年と言われる神木。聖徳太子が物部守屋と戦いはそれより100年後のことだというから驚きである。
朝護孫子寺本堂と張子の寅 朝護孫子寺本堂
本堂と張子の大虎。聖徳太子が毘沙門天を感得したのが寅の年、寅の日、寅の刻であったところから、虎は縁起の良い動物とされている。
この張子の虎は電動モーターで首を振っている。
本堂は豊臣秀頼が再建したが、1951年(昭和26年)に消失、現在の本堂は1958年(昭和33年)の再建。役行者霊蹟札所のご朱印はここでを頂いた。
(大和十三仏霊場のご朱印は玉蔵院で頂いた)
三重塔と日本一大地蔵 多宝塔
三重塔と日本一大地蔵。地蔵の高さは14.56mとあった。 多宝塔。大日如来を祀る。
菊水の旌旗の案内標識 成福院融通堂
境内の案内標識に霊宝殿にある「菊水の旌旗(せいき)」は平群町の有形文化財に指定されていると書かれてあったので、早速入館して確認した。
「元弘元年(1331年))9月10日」の墨書銘があり楠木正成が奉納したと思われる。残念ながら写真撮影が禁止されていたが、平群町のホームページに詳細に記載があるので、そちらをご覧願う。
塔頭玉蔵院の融通堂。
鎌倉時代、紀州根来寺を開山した興教大師・覚鑁(かくばん)上人が信貴山に参篭時、毘沙門天より「如意宝珠」を授けられた。このありがたい如意宝珠がいつの頃からか「融通さん」と呼ばれる様になり、融通堂に祀られている。
三宝荒神堂 千手院護摩堂
三宝荒神堂。併せて不動明王、阿弥陀如来も祀られている。 塔頭千手院の護摩堂。
約1千年前に信貴山中興命蓮上人が 開壇した。

当日(11月3日)は毎年一回一般の人も参加出来る『柴燈大護摩供野外火渡り大祈願会』が行われていた。
以下の写真はそのときのスナップ。
野外火渡り大祈願会-1 野外火渡り大祈願会-2
野外火渡り大祈願会-3 野外火渡り大祈願会-4
野外火渡り大祈願会-5 野外火渡り大祈願会-6
ご朱印
役行者霊蹟札所 空鉢護法堂 大和十三仏霊場
朝護孫子寺朱印-1 朝護孫子寺朱印-2 朝護孫子寺朱印-3
[2007年11月3日参拝] [2007年11月3日参拝] [2007年11月3日参拝]

寺院-211/TTL-598

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