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史 跡
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楠木一族の足跡へ
楠公生誕地 所在地:南河内郡千早赤阪村水分
最寄駅:近鉄長野線「富田林」下車、金剛バス「千早ロープウェイ前」行で「千早赤阪役場前」下車、東へすぐ
楠木正成は千早赤阪村水分山の井に楠木家の屋敷跡があり、ここで生まれたとされる。その生年は不詳であるが、正成の父が子供がないのを悲しみ、信貴山多聞天に願をかけたところ、男児を授かり、そこで幼名は多聞丸と名付けたといわれる。
 この地は、文禄年間(1572〜96年)豊臣秀吉の命により、増田長盛が検地し土台を築き、付近にあった百日紅を移植している。又、元禄年間(1688〜1704年)に領主下館藩石川総茂が保護を加えるなど、時の為政者が保護の手を差し伸べており、その昔から「楠公生誕地」としての伝承があったものと思われる。
 また、1875年(明治8年)内務卿大久保利通が楠公遺跡順訪の折、ここに立ち寄り、史蹟の保護と顕彰を勧めている。

[参考資料] 『千早赤阪の史跡』 (社)千早赤阪楠公保存会
楠公生誕碑 楠公邸址には「楠公生誕地」の碑が建っている。
この碑は大久保利通の勧めに従い、当時の区長、戸長などが住民の協力を得て、1878年(明治11年)に建立。この年は丁度、楠公討死550年に当たっていた。


上記の場所から少し離れたところに、「楠公産湯の井戸」と伝わる井戸が整備、保存されている


楠公産湯の井戸-2

 井戸は現在でも清水が湧いて
 いる。
楠公産湯の井戸-1

史跡-023/TTL-224

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