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所在地:京都市右京区嵯峨 宝筐院
最寄駅:京福嵐山本線「嵐山」下車、北へ約500M
OR 京都駅からバス「大覚寺」域で、「嵯峨釈迦堂」下車、清涼寺の
門前の通りを突き当る。 |
京都・嵯峨の宝筐院に楠木正行の首塚と伝わる石塔がある。 この寺に楠木正行の首塚があるのは、宝筐院の中興の祖である黙庵禅師が正行の生前に相識り、彼に後事を託されていたことから、正行が四条畷で高師直の大軍との戦いに敗れ討ち死にしたとき、その首級を生前の交誼により、宝筐院の前の名である善入寺に葬ったという。
善入寺は平安時代に白河天皇の勅願寺として建てられ、その後衰退したが、南北朝の貞和年間(1345〜50年)に夢窓国師の高弟の黙庵禅師が入山し、寺を復興させた。
室町幕府2代将軍足利義詮が帰依し、足利幕府の歴代の保護もあり、隆盛を極めたが、応仁の乱から江戸時代に至り衰退一途をたどり、幕末には廃寺となり、義詮の墓と楠木正行の首塚の石塔が残るのみとなっていた。
大正時代に入り、楠木正行のゆかりの遺跡を守るため、当時の天竜寺管長であった高木龍淵や神戸の実業家川崎芳太郎によって再興が計られ、現在に至っている。
黙庵禅師と正行にまつわる話が東大阪市の往生院にも伝わっている。正行をねんごろに葬ったのはどちらも同じ名前の黙庵禅師だが、往生院の方は正行の首級ではなく、胴だけが葬られたとのことである。
何故胴のみが戦死した場所の近くに葬られ、首級だけが遠く離れた京の都に葬られることになったのだろうか。
なお、正行の首塚と伝わるところはこの宝筐院以外にも存在し、いずれの首塚もそれなりに説得力があり、ロマンを掻き立てる。
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[参考資料] 『宝筐院』 宝筐院パンフレット |
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宝筐院境内に建つ足利義詮の墓(左側)と楠木正行首塚(左側)。
正行の話を黙庵禅師から聞いた義詮は、正行の人柄を褒めたたえ、自分もその傍らに葬るように頼んだという。
義詮が没すると善入寺はその菩提寺となったが、8代将軍義政の代になり、義詮の院号に因み宝筐院と改められた。 |
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宝筐院山門。 |
宝筐院の手前、清涼寺山門の傍らに建てられている
「つきあたり 小楠公御首の寺」の石碑。 |
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宝筐院本堂。1911年(大正6年)に再建された。 |
本堂に安置されている楠木正行像。高さ20cmほどの小さな像であった。 |
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首塚の傍らに建つ「欽忠碑」。
1891年(明治24年)の建立。当時の京都府知事北垣国道の撰文による。 |
正行が四条畷の戦いに臨むに際し、吉野行宮で後村上天皇に今生の別れを告げた後、如意輪寺で詠んだ辞世の歌 『かゑらじと かねておもえば 梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる』の碑。 |
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宝筐院を訪れた12月上旬は紅葉もピークを過ぎ、境内は落ち葉で赤く染まっていた。 |