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史 跡
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楠木一族の足跡へ



桜井駅跡 所在地:三島郡島本町桜井
最寄駅:阪急京都線「水無瀬」下車、駅前の通りを北西へ約500M
小学校唱歌『青葉茂れる桜井の(桜井の決別)』で歌われている桜井駅跡(国史跡)は楠木正成・正行父子 の決別の地として知られ、現在は公園として整備保存されている。
 『太平記』によると、1336年(延元元年)九州から大軍を率いて上洛してくる足利尊氏を討つべく湊川に向かう楠木正成が、ここ「桜井駅」で11歳 になる嫡子正行に訓戒を与えて河内に帰らせたと伝えられている。
 但し、この話は『太平記』にのみ見られる話で、延元元年当時、正行は既に大人で左衛門少尉であった ことなどから、この桜井駅の別れは史実には無かったとするのが一般的である。
 桜井駅の名も『太平記』にしか見えない駅名であるが、この地は西国街道と淀川を渡って対岸の河内の樟葉から高野街道に向かう交通の要所であり、 『続日本紀』にある「摂津国嶋上郡大原駅」はこの桜井駅を指すといわれている。
 この「国の史跡」も、ご多分に漏れず、開発の波が押し寄せており、訪れたときは史跡に隣接する土地はJR新駅のための駅前となる敷地が整備 工事中であった。工事を優先させるためか、史跡の正面の入口が閉鎖され、数10m離れた側面からの入場を余儀なくされた。

[参考資料] 『現地説明板』 大阪府教育委員会ほか
「桜井駅址」の碑 桜井駅跡現地案内板
公園の片隅に建っていた「桜井駅址」の碑。 現地の案内板によると「国史跡」の指定は1921年(大正10年)に受けている。
乃木希典の揮毫による「楠公父子決別之所」 「楠公父子決別之所」の揮毫は陸軍大将乃木希典による。1912年(明治45年)の建立。



この碑は1931年(昭和6年)の建立で明治天皇の御製『子わかれの 松のしずくの 袖ぬれて 昔をしのぶ さくらいのさと』を海軍大将東郷平八郎大将が揮毫した。




明治天皇の御製の碑の裏面

 裏面には頼山陽の漢詩「過桜井
駅址詩(さくらいえきあとをすぐ)」
が彫られている。
東郷元帥の揮毫による明治天皇の御製
楠木父子の別れの像 正成、正行父子決別の場面の像。台座の「滅私奉公」は戦前のものであるが、上の像は真新しく、「滅私奉公」のイメージとは程遠い感がする像で、最近置換えられたものらしい。
塀の向こう側では新駅設置のための土地整備工事が行われている。

史跡-086/TTL-346

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