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所在地:三島郡島本町広瀬3丁目
最寄駅:阪急京都線「水無瀬」下車、駅前の通りを右に入り、
北東へ約800m |
当社は元は鎌倉時代の初期、後鳥羽上皇御造営の水無瀬離宮のあった所で、上皇は都から船で度々訪れ、この離宮で管絃の催し、歌の会、狩りや刀剣の鍛作なども行われた。
後鳥羽上皇は1221年(承久3年)、いわゆる「承久の乱」で討幕の兵を挙げたが、わずか1ヶ月で鎮圧された。幕府は仲恭天皇を廃し、後堀河天皇を立てると共に、後鳥羽上皇は隠岐に、順徳上皇は佐渡に、土御門上皇は土佐(後に阿波)に遠島となり、3人の上皇は再び都の土を踏むこと無く、いづれも遠隔の地で亡くなっている。
1239年(延応元年)後鳥羽上皇は亡くなる14日前に自らの手印を押した置文〔『後鳥羽天皇御手印御置文(国宝)』〕を、水無瀬離宮を管理していた水無瀬信成、親成父子に下賜し、後生を弔うよう言い残した。
上皇の没後、水無瀬父子は離宮の地に御堂を建て、上皇が隠岐へ配流される直前に似絵の名手藤原信実に描かせたと伝わる御影〔『後鳥羽天皇像(国宝)』〕を拝領し、上記の置文と共に納め、菩提を弔った。これが当宮の起原である。
その後600年にわたり、朝廷や武将の尊崇を受けつつ、慰霊の行事が続けられて来たが、1873年(明治6年)神社となり、官幣中社に列せられ水無瀬宮と称し、同時に土御門、順徳両天皇の霊も祀らた。
1939年(昭和14年)後鳥羽天皇700年式年に当たり官幣大社に昇格、神宮となった。大阪府下において神宮を呼ばれるのは唯一、当社だけである。
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[参考資料] 『水無瀬神宮略記』 水無瀬神宮パンフレット |
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水無瀬神宮は住宅地の中にあるが、この神宮の一角だけはかろうじて、自然が残っている。 |
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拝殿(右の写真)は1929年(昭和4年)の改築とのことだが、拝殿に向かって左側にある客殿(左の写真)は、豊臣秀吉の寄進で、造営奉行は福島正則と伝えられ、国の重要文化財に指定されている。拝殿の奥の本殿は京都御所の旧内待所を明正天皇の御世(在位:1629~43年)に下賜され、移築した。 |
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参道の正面にある神門。薬医門造というそうだ。
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柱に貼ってある案内板によると文禄年間(1592~96年)、石川五右衛門が神宝の太刀を盗もうと数日間窺ったが、神威にうたれ一歩も入れず門柱に手形を残して退散した。肝心の手形は古いせいか良く判らなかった。 |
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この辺りは地下水に恵まれ、水無瀬神宮に沸き出でる水(離宮の水)は1985年(昭和60年)、大阪府下で唯一環境庁認定の「全国名水百選」に選ばれている。この水を求め、多くの人がポリタンクを片手に順番待ちをしていた。これでもまだ少ない方だそうである。 |
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[2005年2月14日参拝] |
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