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楠木一族の足跡へ
紫雲山葛井寺 所在地:藤井寺市藤井寺
最寄駅:近鉄南大阪線「藤井寺」下車、南へ約200M
西国三十三ヵ所の第5番札場でもある葛井寺は紫雲山三宝院剛林寺と号し、その創建は諸説あるが、
7世紀後半の白鳳時代に百済系渡来者の葛井氏一族により建立されたとみるのが通説である。
 1096年(永長元年)大和の藤井安基が荒廃していた当寺を修理復興したので、彼の姓を取り、藤井寺と呼ぶようになったというが、藤井寺は地名として残り、寺名は元の葛井寺に戻っている。
 室町時代は奈良・興福寺の末寺として栄えるが、畠山政長畠山義就両家の内紛に絡む戦闘で、度々戦乱の場となっている。なかでも1493年(明応2年)には10代将軍足利義稙の本陣となり兵火に罹り、楼門、中門、三重塔、鎮守、奥院(阿保親王の子、在原業平の建立と伝わる)を焼失した。遺された宝塔と本堂も1510年(永正7年)8月8日に起きた地震で破壊されている。
 1510年(永正7年)勧請活動に当り、三条西実隆が記した寺記には『725年(神亀2年)に聖武天皇の勅願によって、行基菩薩が開基し、さらに平城天皇の勅願により阿保親王が再興された。』とあるが、寺院再興のため、阿保親王(母が葛井氏の出だといわれる)の話を絡ませ、創建の話を膨らませたものと思われる。
 近世に入り、豊臣秀頼や徳川家代々の外護により、寺勢が盛隆安定した。特に江戸時代以来は西国三十三ヵ所の札所として、民間の信仰を得て、現在に至っている。

[参考資料] 『日本歴史地名体系』(大阪府の地名編) 平凡社
葛井寺山門

元は下の写真の西門が南門にあったとのことであるが、現在の南門はそれよりも更に大きくそびえるように建っている。


葛井寺西門
 西門(四脚門)は1601
 年(慶長6年)豊臣秀頼
 が寄進した。桃山様式を
 よく伝える建造物として、
 国の重要文化財である。 
本堂は1744年(延享元年)罹災に遭い、1758年(宝暦8年)に再建されている。
本尊は、天平仏と伝わる十一面千手千眼観世音菩薩(乾漆造:国宝)で、脇侍として地蔵菩薩像と聖観音像が安置されている。
この本尊は名前の通り、本当に千本(実際は1041本)の手をもつ観音さんである。
葛井寺本堂
葛井寺紫雲石燈籠 葛井寺三鈷の松
本堂の正面に建つ紫雲石燈籠。
傍らの石柱には「聖武天皇御寄附 写紫雲石燈籠」とある。写となっているところを見ると元の灯籠の模造品らしい。大阪府指定の文化財
楠正成が戦勝を祈願し、大般若経600巻を奉納している。この松はその折、『非理法権天』の軍旗を掛けたと伝わる。三鈷の松(松葉が3つに分かれる)としても有名。
その子正行が、1347年(正平2年)藤井寺合戦で細川顕氏と当地で戦い、勝利している。
葛井寺境内 葛井寺藤棚

境内には藤井寺の名を示す藤棚が多く作られている。
昨年10月、中国・西安市で発見された墓誌にあった遣唐使、井真成という人の出身地が藤井寺ではないかとのことより、境内にはアピールする旗指し物が沢山立てられている。墓誌は現在、愛知万博で展示されている。
ご朱印
河内33ヶ所霊場 西国33ヶ所霊場
葛井寺朱印-1 葛井寺朱印-2
[2005年6月1日参拝] [1999年10月14日]

寺院-137/TTL-393

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