  |
所在地:東大阪市五条町4丁目
最寄駅:近鉄奈良線「枚岡」下車、南へ約500m |
寺伝によると元は真言宗で鎌倉時代の創建。開基は正円。山号を天野山と号するのは、かっては天野山金剛寺(現河内長野市)の末であったためと伝わる。
鎌倉時代の後期、住僧了願(楠木正頼)が本願寺3世覚如上人(1270〜1351年)の直弟子となり、その後住僧了正も本願寺8世蓮如上人(1415〜99年)に帰依し、1476年(文明8年)浄土真宗に転じ、1505年(永正2年)木仏を授与され、寺号が許可されている。
寺蔵文書によると、享保年間(1716〜36年)には宗判寺(*)として、余間(*)の寺格を有し、本願寺の御番料(手当が支給された)寺院であった。 |
宗判寺:江戸時代、主にキリシタンなどの禁教の信徒でないことを保証し、文書に寺の檀家であることを証明した印判(寺判)を捺印した寺院。
余間:本堂の中央内陣の両脇に設けられた部屋やスペース。浄土真宗では転じて、寺院の寺格(格式:序列)をあらわすようになった。宗派や時代により変遷があるが、近世西本願寺派では@院家(筋目、准)、A内陣、B余間、C三之間、D飛檐(ひえん)、E初中後、F国絹袈裟、G平僧と細分化されている。 |
楠木正頼:楠木正玄の子との説がある。楠木一族の系図には、楠木正成の父を正遠、正澄、正康 、正玄などする諸説が存在するが(正玄を祖父とする説もある)、正成の父が正玄ならば正頼と正成は兄弟(正玄が祖父ならば従兄弟)ということになる。しかし、正成以前の系図については、後世の創作と見られ、確証はないが、正成とは近い血縁関係の人物であると思われる。
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[参考資料] 『日本歴史地名体系』大阪府の地名編 平凡社 |
 |
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専宗寺山門。 |
専宗寺本堂。現在の1992年(平成4年)12月に竣工。
本尊の木造には1641年(安永18年)の銘がある。 |
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専宗寺鐘楼。1775年(安永4年)の再建。 |
本堂の前に植えられてあったマキの木は4〜5mにもなる巨木で、よく手入れがされてあった。 |
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専宗寺太鼓楼。1776年(安永5年)の建立。
太鼓で周囲に時刻を知らせたり、非常時の合図に使われた。 |
専宗寺の外から見た太鼓楼。
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