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楠木一族ゆかりの寺
史 跡
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楠木一族の足跡へ
横玉山定専坊 所在地:大阪市東淀川区豊里6丁目
最寄駅:阪急京都線「上新庄」駅下車、市バス「北淀高校前」下車、東へすぐ
楠木正勝の墓
楠木正成から3代目にあたる楠木正勝の墓は大阪市東淀川区豊里町の「定専坊(浄土真宗)」にある。
 正勝は正成の3男正儀の長男で、生年及び没年共に詳細は不明。父正儀の死後、1382年(弘和2年)山名義理と土丸城攻防を演じ、1388年(元中5年)山名氏清と戦っている。
 同年足利義満の南紀歴遊を狙って、弟の正秀と謀り、これを攻撃しようとしたが、密告者が出て、失敗。
 1392年(元中9年)足利義詮の和議申し入れを拒否したため、義詮は大軍を千早城に差し向け、総攻撃を行い、これをを陥落させた。
 千早城陥落後、正勝は十津川に走り、以後再び千早城に戻ることはなかったが、正勝・正秀兄弟は南北朝合一後の1399年(応永6年)堺で足利軍と戦い、完敗している。 それ以後の正勝の消息は不明であり、十津川で亡くなったとの説と共に、一説には摂津の西光寺(現在の定専坊)に隠棲したと伝わる。
  定専坊は横玉山と号し、創建は聖武天皇(701〜56年)の時代に、行基の開基と伝えられ、始めは西光寺と称した。
室町時代になり、正勝の孫に当たる掃部(正盛の子)は帰依して浄賢と改め、本願寺の蓮如上人と親しくしていたことから、真言宗から浄土真宗に改宗した。 後、蓮如が当寺に留ったとき、定専坊と名付けたという。
1499年(明応8年)死期を悟った蓮如は山科に戻る途中、サンバの定専坊に立ち寄り、実子の実如を呼び寄せ、浄賢を立ち合わせて、遺言を伝えたと伝わる。(お寺のあった旧地が豊里3番町にあったところから俗にサンバと呼ばれる)
又、浄賢の3代後の了賢は天正年間(1573〜92年)の石山本願寺の合戦に参加し、織田信長の大軍を大いに苦しめたと記録に残っている。
元の定専坊はここより南へ行った、現在は淀川の川底となっている場所にあり、1900年(明治33年)新淀川開削に伴う淀川改修工事の時、現在の場所に移転している。

[参考資料] 『大阪人物事典』 三善貞司編 清文堂出版社
定専坊山門前に建つ「蓮如上人遺跡」の石碑。
1978年(明治11年)の建立。この石碑は道標として建てられていたが、現在地に移された。
側面には「楠二郎左衛門尉正勝墓」とある。
定専坊門前に建つ「蓮如上人遺跡」の石標
楠木正勝の墓 境内鐘楼の前に「当山先祖 楠木一族の墓碑」の木札があり、楠木正勝とその子正盛・盛信の墓がある。五輪塔はかなり風化しており、表面の文字などは消えている。
寺が現在地に移転の際の混乱も加わり、どの墓が誰の墓は分からなくなってしまったとのことであるが、大学の先生たちの鑑定では、室町時代のものには間違いないとのことである。
本堂は築後400年を越えるとのことだが、現地に移転の際、修復工事も併せて行っているとのことで、外観の痛みなどは見られない。  定専坊本堂
境内に建つ親鸞上人の銅像 境内には親鸞上人の銅像が建つ。
鐘楼にある梵鐘はかっては石山本願寺にあったもので、織田信長との合戦のとき早鐘に用いていたという。
石山本願寺から鐘を引きずって運搬したためか、かなりの擦り傷が認められるとのことである。
定専坊山門 菊水紋が入った定専坊軒瓦
山門は室町時代の建築様式を今に伝える。 楠木家ゆかりのお寺らしく、軒瓦には「菊水」の紋が入っている。

史跡-040/TTL-220

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