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所在地:高槻市天神1丁目
最寄駅:JR東海道線「高槻」下車、北へ約500M |
当社の祭神は菅原道真、武日照命、野見宿禰の3神を祀る。社伝によれば、993年(正暦4年)勅使菅原為理が太宰府道真廟に参拝し、正一位左大臣の遺贈の詔を伝えた帰洛の途中、この地で急に牛車が動かなくなった。為理は、これは山上に菅原氏の祖廟があるためであろうと考え、社殿を造り、道真の霊を祀ったという。京都・北野天満宮に先立って造営されたので、上宮天満宮と称した。
戦国の争乱などで荒廃したが、豊臣秀吉が社殿を再興し、江戸時代には高槻城主永井直清が拝殿や石鳥居を建てたと伝えられる。
中世は神仏融合により、天台宗延暦寺支配で、別当春松院があり、明治初年の神仏分離令まで、26代にわたり運営をしている。
1879年(明治12年)郷社指定の時、野見神社から分霊を本殿の移し、当社を濃味神社と称したが、1946年(昭和21年)宗教法人設立に際し、旧名に復している。
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[参考資料] 『表情を変えたてんじんさん』 上宮天満宮パンフレット
『日本歴史地名体系(大阪府編)』 平凡社 |
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参道の中ほどにある二の鳥居。
1656年(明歴2年)に高槻藩主永井直清が寄進した。林羅山の神威を称える銘文が刻まれている。
手前の『上宮天満宮』と記された碑には「創建927年ー
我国第二の天満古社」とも記されている。勅使の神輿が動かなくなったという993年(正暦4年)より、更に66年遡る927年(延長5年)を創建としているが、この年月の差は頂いたパンフレットには記載されていなかった。 |
割拝殿。これも永井直清が寄進造営したもの。
江戸時代後期の文政年間(1818~30年)に奉納された三十六歌仙絵額が掲げられている。 |
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竹造りの本殿。旧本殿は豊臣秀吉の寄進を受け、片桐旦元の作事によるものだったが、1996年(平成8年)11月放火により焼失、新しい本殿は2002年(平成14年)に我国で初めて試みとして、建材の全てを竹により造られている。 |
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菅原道真の衣装塚。
太宰府へ流される途中、道真の衣を埋めたとされる碑。(4代目子孫の為理が、後に持ち帰った遺品の衣を埋納したとの説もある)
元は、道路を隔てた向側に、あったものを道路の改修工事に伴い現在地に移している。 |
境内社の野身神社・野見宿禰の墳。
6世紀の円墳上に建てられた古社で「延喜式」神名帳に載る島上郡の同名社に比定される。
野身神社は土師氏が祖先の野見宿禰を祀ったもので、菅原氏は土師氏の出身であり、当社の祭神の関係が知られる。 |
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境内神輿倉横にある秀吉本陣跡の碑(真ん中の破損している石碑)。
1582年(天正10年)豊臣秀吉が山崎の合戦の折、この場所に本陣を構えて采配を振るったと伝えられる。
元は下の道路に面した箇所に建てられていたが危険なため、現在地に移転されている。 |
根上り松跡の碑。
参道の側面の土塁のところにあったが、付近にこれに該当するような痕跡は見当たらなかった。
かっては参道には松並木が続いていたとのことであるが、ここに見事な松があったのか、またはこの石碑をどこからか運んできたものなのか。いずれであろうか。 |
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[2005年2月22日参拝] |
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