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神社めぐり
神社めぐり 網敷天神社
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・04/11/04
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道真の足跡へ



網敷天神社 所在地:大阪市北区神山町
最寄駅:梅田阪急百貨店前交差点より東へ約600M、太融寺の
東側向かいの辻を北に入る
当神社は、822年(弘仁13年)嵯峨天皇が兎餓野に行幸したことに由来し、同天皇崩御後、その追悼のため左大臣源融(みなもとのとおる)が824年(承和10年)に現在地に社殿を創建し、嵯峨天皇の諱である神野(かみぬ)をとり「神野太神宮」と称した。
 現在の社名は、901年(延喜元年)菅原道真が大宰府に左遷の際、この地に今は盛りと咲いていた紅梅に目を留め、これを観賞するため船の艫綱(ともづな)を円く円座状に敷いて休息したことに由来し、神社の名前を「網敷天神社」と称せられるようになった。このとき土地の農民が「ゆりわ」という器に団子を盛りつけて菅公をもてなしたという伝説があり、現在も神事、祭礼のときに「ゆりわ」に団子を盛って神供しているとのことである。
 また、地名の喜多埜(きたの)の名前から「北野天神」とも呼ばれている。この神社の周辺は古来より、梅の木が沢山あったと見え、梅田、梅ヶ枝町などの地名が残っている。
社伝によれば、道真は随行した従者・度会一族に自画像を与え、この地に留まり、神社に奉仕するように遺訓を残した。この渡会家の子孫は今日の宮司の白江家の祖先であるとのこと。

[参考資料] 『網敷天神社』 網敷天神社パンフレット
網敷神社正面鳥居 阪急の交差点より扇町の方へ「阪急東通り商店街」を約10分ほど歩くと、商店街の東のはずれに近いところに神社がある。
先の大戦の空襲で社殿は灰燼に帰したが、神宝の「御綱」と「御影」は戦災を免れたとのこと。
現在の社殿は1956年(昭和31年)の再建。
網敷神社本殿
境内に建つ従軍記念碑 境内にある「従軍記念碑」。
石碑の前の説明文によると、この碑は太平洋戦争後処分をすることになっていたが、宮司が今日あることを予想し、地中に埋めておいた。1977年(昭和52年)「菅公御神忌1075年祭」に当たり、記念のためこれを掘り起こし、再建立したとのことである。

綱敷神社の摂社・末社
   
網敷神社お旅所の梅塚天神 網敷神社末社の歯神社
若者の町、大阪市北区茶屋町にある綱敷神社のお旅所「梅塚天神」。元は菅原道真も見たという「紅梅」があったと伝わる。明治の初年頃、この地に天神さんを氏神として迎えた。 阪急百貨店の裏手にある綱敷神社の末社「歯神社」。
その昔、梅田一帯が大洪水に見舞われた時、ご神体の巨石が、流れる来る水を堰き止め、水没を防いだことから、歯止め=歯の神様として信仰されるようになった。

神社-012/TTL-076

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