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神社めぐり
神社めぐり 野江水神社
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野江水神社 所在地:大阪市城東区野江4丁目
最寄駅:地下鉄谷町線「野江内代」下車、野江4丁目交差点
西へ約150m
当社の創基は不詳であるが、大坂では推古天皇(在位:592~628年)以来、1915年(大正4年)まで、記録に残るだけでも、淀川の氾濫は250回以上あったと言われる。その中でも、野江一帯は土地が低く、大雨が降ると淀川やその支流が氾濫し、再々水害を被るため、水の神様が勧請されたものと思われれ、1533年(天文2年)三好政長(宗三)がこの付近に榎並城を築く際、たびたび水害を被ったので、水火除難の守護神として城内に小さい祠を造営し、祀ったのが現在の社殿の位置と伝わる。
 1583年(天正11年)、豊臣秀吉も大阪築城に際し、水火除難の守護神として近郷の諸社中最も崇敬篤く、社殿を修築し、幣帛を奉り、国家泰平を祈願したという。
 また、1702年(元禄16年)の大洪水では、一面水海と化し、住民がことごとく困窮の日を重ねていた時に快晴の祈願をしたところ、雨が止み洪水は減退したと伝えられ、1803年(享和2年)の大洪水にも当神社は無事であったことを『榎並八箇洪水記』の中に記録されている。
 現今の社殿は、1885年(明治18年)の大洪水で倒壊したため、1888年(明治21年)に再建されたもので、その後数度の増築、改築を経て、現在に至っている。

[参考資料]『参拝のしおり』 野江水神社パンフレット 
野江水神社正面鳥居 野江水神社拝殿
野江水神社正面鳥居。 野江水神社拝殿。水波女大神(ミズハノメノオオカミ)を祀る。
境内社「野江稲荷神社」 野江水神社裏門
境内社「野江稲荷神社」。衣食住・商売繁盛の神、宇迦之御魂大神(ウガノミタマオオカミ)を祀る。 野江水神社の西口(裏側)の出入門
野江水神社に隣接して建つ「野江水流地蔵尊」 野江水神社に隣接して建つ「白杉大明神」
野江水神社に隣接して建つ「野江水流地蔵尊」(左の写真)と「白杉大明神」(右の写真)。
野江水流地蔵尊は1885年(明治18年)の大洪水の時、当地に流れ着いたとの謂れがあり、城東区民にとっては忘れてはならない出来事の証人として、守り伝えられている地蔵尊とされている。
榎並小学校の校門前に建つ「榎並城跡伝承地・榎並猿楽発祥の地」の石碑 榎並小学校の校門
野江水神社に隣接する榎並小学校の校門前に建つ「榎並城跡伝承地・榎並猿楽発祥の地」の石碑。

榎並城は歴史上、度々登場するにもかかわらず、場所の特定など不明な点が多い。南北朝後期、楠木正成の子、正儀も1368年(正平23年)ここに在陣したことがある。
戦国時代、1533年(天文2年)に三好政長が築いた榎並城は、小さいながら東成郡随一の要衝であったといわれていたが、1548年(天文17年)三好長慶が、三好政長を攻め、この時榎並城は廃城になったと思われ、その後、城跡を石山本願寺が再利用した推定される。

榎並猿楽は鎌倉時代末期に丹波猿楽の新座としてこの付近に座を構え、住吉神社の御田植神事に奉納し特権を得ていた。南北朝時代には榎並座と呼ばれ、丹波猿楽の樂頭として活躍していたが、その後、室町時代に入り、丹波猿楽の楽頭職を大和猿楽の観世に譲り渡し、次第に衰退していった。
ご朱印
野江水神社朱印
[2012年11月10日参拝]

神社-136/TTL-753

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