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所在地:大阪市平野区喜連6丁目
最寄駅:地下鉄谷町線[喜連瓜破]下車、市バス「加美南6丁目」行で「喜連」下車すぐ |
当社の歴史はきわめて古く、今から約2100年以上も前(現地の説明板では崇神7年とあり、西暦紀元前91年)初めて祀られたといわれ、住吉大社よりも歴史のある延喜式内の古社である。祭神は建御雷命と大国主大神で、また、神武天皇が国内平定に用いられた十握の劒を祀られているという。
元は字楯原(現在の喜連西1)にあったが、戦国時代の文明13年(1481年)兵火に遭い、旧社地より現在地の近くに遷座されたが、元和年間(1615~24年)暴風雨のため社殿が壊れ、現在の地に新たに遷座されている。この元和年間に天神社を合祀し、後に菅原道真を併祀した。 これにより、「天満宮」、「天神社」の呼び方が定着し、本来の祭神は忘れられ、楯原の社名は「奥の宮」に移ってしまった。
加えて、摂社の「龍王社」の祭神である赤留姫命が楯原神社の祭神と転じてしまい、1872年(明治5年)赤留姫命を祀る社と間違われたまま、天神社として村社に列せられてしまったが、1910年(明治43年)東西神社、春日神社を合祀し、式内楯原神社に復した。
1951年(昭和26年)東西神社、春日神社を元の東喜連町に分離移転し、現在に至っている。
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[参考資料] 『式内楯原神社の由来』 現地説明碑
『日本歴史地名体系』大阪府の地名編 平凡社 |
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訪れたときは丁度、桜が満開であった。 |
拝殿の前の広場は桜の花びらで、絨毯を敷いたようになっており、何組かの家族の「桜の宴」が開かれていた。 |
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奥の院には「神宝 十種之宮」が祀られている。
現地説明板の記載を要約すると『この神宝は元は奈良・石上神社にあったが、戦国時代末期織田信長の焼き討ちに遭い、持ち去られたが、幸いにも保護されており、これを知った豊臣秀吉が、生魂の森深くに納めた。
幕末の混乱期に再び持ち去られ、行方不明であったが、古道具屋の店頭で発見され、喜連に住む小林某なる人がこれを買い求め、紆余曲折を経て、当社に奉納された。
石上神宮の守護職を歴代つとめている庄司氏が返還を求めてきたが返さず、社殿を建立して祀り、現在に至っている。』とのことである。 |
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[2004年4月7日参拝] |
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