|
所在地:八尾市久宝寺5丁目
最寄駅:JR大和路線「久宝寺」下車、北へ500M、顕証寺の手前 |
許麻(こま)神社の創立は不詳であるが、「延喜式」神名帳には小社に列せられており、今から1100年以前より存在していた由緒ある神社で、江戸時代には「久宝寺の牛頭天王」と呼ばれていた。
許麻は高麗に通じ、この地は古くは「巨麻荘」または「許麻荘」といい、高麗からの渡来民族が多く住み着いていた。彼らが祖霊として祭祀したのが、後に神社として祀られ、社名に「コマ」が残ったと思われる。
また、かっては、この神社と同じ敷地内に「久宝寺観音院」が宮寺としてあり、この寺の創建は聖徳太子が建立された「久宝寺」に遡るが、戦国時代、松永弾正久秀の兵火に罹り、灰燼と化した。
幸い、聖徳太子自作と伝わる本尊の11面観音は難を逃れ伊賀の国に疎開したが、紆余曲折を経て、現在は同じ久宝寺町にある、念仏寺に安置されている。
久宝寺観音院は1677年(寛文7年)再興されたが、明治初年の神仏分離により廃寺となった。
|
[参考資料] 『許麻神社案内記』 許麻神社パンフレット |
|
訪れた日は人影もなく、社務所も閉じられていた。 |
社殿の建立は1582年(天正10年)に社殿改建の記録が残っているとのことで、その後幾度となく改建、修復がされたが、近年では1969年(昭和44年)不審火で焼失している。
現在の社殿は2年後の1971年(昭和46年)に鉄筋構造で再興されている。 |
|
|
|
久宝寺が1667年(寛文7年)に再興された時の「鐘楼」は神社の「手水舎」となって保存されている。
|
神社の通りを隔ててある「許麻橋地蔵」。1552年(天文21年)亡父の追善供養のため建立されたが、現在では安産地蔵と言われている。 |