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所在地:和泉市上代町
最寄駅:JR阪和線[和泉府中]OR「信太山」下車、
循環バス(阪和線沿線ルート)で「上代町自治会館前」下車、すぐ |
当山の縁起は今から約1200年以上も前の天平時代に建立された「信太寺」がその前身で、1977〜8年(昭和52〜3年)の発掘調査でも軒丸瓦・軒平瓦・信太寺刻印瓦などが
発掘されている。
創建当寺、山門、本堂、鐘楼、3重塔などの堂宇が聳えていたと伝えられるが、現在の観音寺の佇まいからは想像も出来ない。
織田信長の槙尾山焼き討ちの際に、同じく焼き討ちされたのを始め、数度にわたる兵火により荒廃したとも伝わるが、寺歴などの文献は伝わっておらず、詳細は不明である。
下記の参考資料には、観音寺の開基は河内・玉手山の念仏寺の僧阿憶大和尚としているが、現在の 地図を見る限りにおいて玉手山地区には念仏寺という寺院は存在せず、 玉手山中腹にある安福寺は天平年間(729〜49年)に行基菩薩の開基と伝わる古刹で中世には荒廃したが、江戸時代の初期に珂憶上人が再興したと伝わる。阿憶(あおく)大和尚と珂憶(かおく)上人、寺院の名前は違うが和尚の名はよく似ており、話がどこかで食い違ったものと思われる。
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[参考資料] 『泉州 和泉西国三十三所めぐり 観音さま』 和泉西国会発行 |
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「観音寺」と書かれた大きな看板やそれと示す石標が無ければ、寺院と分からない建物の雰囲気である。 |
観音寺本堂。
江戸時代に建立された本堂は1950年(昭和25年)のジェーン台風により全壊した。現在の建物はその後再建されたもの。 本堂に安置されている本尊の十一面観音像は奈良時代の作と言われるが、頭部の欠損部は江戸時代に補修されているため、文化財の指定は受けていないとのことであった。 |
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境内の一角に雑然と集められている墓石群。
左端の墓石は観音寺開基の阿憶大和尚の墓。墓標には「阿憶大和尚」とのみ彫られている。 |
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観音寺の入口に建てられていた「12番札所観音寺」(左側)と「信太寺跡」(右側)の石標。 |
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和泉三十三ヶ所観音霊場 |
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[2006年7月15日参拝] |
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