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所在地:岸和田市池尻町
最寄駅:JR阪和線「久米田」下車、徒歩約10分 |
当山は天平時代聖武天皇の勅願により、橘諸兄を大檀越として、行基菩薩によって開創された。
行基49院の1つで、門前に広がる久米田池を維持管理するため、738年(天平10年)に建てられた隆池院に始まるという。
草創の初めより、奈良興福寺の末寺として、その別当職は興福寺一乗院家が相伝し、平安時代にかけては学問の寺として発展し、南都北嶺(興福寺と比叡山)の学徒の往来も多かったと伝わる。
平安時代末期から鎌倉時代にかけ、社会不安と大動乱のため荒廃が目立ち、1187年(文治元年)後白河上皇が、1199年(正治元年)後鳥羽上皇が相次いで寺領安堵状と国役免除の庁宣が下されたが、退廃の勢いを留めるには至らず、弘安(1278〜88年)の頃には伽藍ことごとく傾き、わずかに金堂・多宝塔・寺院2、3宇を存し、後は礎石ばかりというありさまとなった。
安東蓮聖が時の執権北条時頼の助力を乞い、再興に着手。当寺の僧たちは勧進をはじめ、1282年(弘安5年)には堂宇の新築、多宝塔の修造、経蔵、僧堂などの完成を見、奈良西大寺の叡尊を導師として落慶供養を行った。
その後、1563年(永禄5年)三好実休と畠山高政の久米田合戦があったとき堂塔が兵火にかかり、宝物・古文書は施福寺(現和泉市)に移して難は免れたが、戦国騒乱 の渦中で寺は衰微し、江戸時代に入ってようやく復興に着手、1674年(延宝2年)に至って一応再興を成し遂げた。その後宝暦〜明和(1751〜72年)の修理再建を経て、現在に至っている。
なお、当寺の背後に点在する古墳は久米田古墳群とも呼ばれており、貝吹山古墳(伝橘諸兄墓)、風吹山古墳、無名塚古墳(伝橘諸兄夫人の墓)、光明塚古墳、池尻古墳、志阿弥法師塚(伝行基の高弟の墓)など多くの古墳が存在する。
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[参考資料] 『久米田寺』 久米田寺パンフレット
『日本歴史地名体系』(大阪府の地名編) 平凡社 |
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久米田池に面して建つ山門。1706年(宝永3年)の再建と伝えられる。
なお、久米田寺の境内は大阪府指定の史跡となっている。 |
久米田寺金堂(本堂)。(明和7年)の再建
本尊の釈迦如来野ほか、文殊菩薩、普賢菩薩を安置する。
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久米田寺多宝塔。
2003年(平成15年)に再建落慶したばかりで、朱色が目に映える。
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大師堂。1824年(文政7年)の再建。
弘法大師、不動明王、毘沙門天を祀る。
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開山堂(行基堂)。
1822年(文政5年)の再建と伝え、行基菩薩を祀る。 |
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観音堂。1803年(享和3年)の再建。
行基菩薩40歳のときの、自刻と伝える千十観音菩薩を安置する。 |
石造五輪塔。重要文化財の指定を受けている。
3基の中央は聖武天皇、左端を光明皇后、右端を亀山天皇の墓と伝えられる。石塔は鎌倉時代のものであり、追善供養として建てられたものらしい。、 |
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光明塚古墳。光明皇后の爪、遺髪を葬ったと伝わる。 |
行基菩薩の墓。開山行基の舎利を分骨して納める。 |
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久米田寺と道を隔ててある貝吹山古墳。
全長135m・後円部径82m・前方部幅64mの前方後円墳で、段差のある周濠をめぐらしている。橘諸兄の墓と伝わる。 |
久米田池は農閑期のため、池の水は抜かれ、護岸工事が行われていた。
池尻町・岡山町にまたがって周囲約4Km、水面積約63ヘクタールの広さがあると言われる。 |
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和泉三十三ヶ所観音霊場 |
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[2007年2月10日参拝] |
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