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所在地:貝塚市王子
最寄駅:南海本線「二色浜」より北東へ徒歩約15分 OR JR阪和線「橋本」下車、南西へ徒歩約10分
(今回は水間鉄道「石才」から歩いた。約30分) |
寺伝によると当山の開基は7世紀後半から8世紀前半の白鳳時代に遡るという。平安初期に著された『日本霊異記』には和泉郡血渟(ちぬ)山寺に来住した優婆塞が同寺の吉祥天女像に恋い慕った話がみえ、この血渟山寺は施福寺に比定されており、施福寺の記録によれば、この吉祥天女像は山内吉祥院に祀られていたが、後に近木郷の吉祥園寺に移ったことが記されている。
現在の地名が示すように「胡沐新王子」に比定される王子権現社が当寺の近くにあり(旧跡の所在位置は明らかでない)、1201年(建仁元年)後鳥羽上皇一行が熊野詣の途中、この吉祥園寺(記録では吉祥音寺)で昼食を取ったことが『後鳥羽院熊野行幸記』に記されており、昼食後に王子権現社に参拝したとある。
また、吉田経房が1174年(承安4年)に熊野参拝の途中に「古木堂」で昼食、1216年(建保4年)藤原頼資が熊野参拝の帰途「近木堂」で宿泊したとしているが、何れの「こぎ堂」も吉祥園寺である可能性が高いとされる。
戦国時代、伽藍は三好氏の兵火により焼失したと伝え、江戸時代には和泉33ヵ所霊場の27番札所となったが、檀家は持たず、十六羅漢講を中心とした信者組織が存在した。現在の佇まいからは往時の隆盛は窺えないこじんまりとした寺院であった。
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[参考資料] 『現地解説板』 貝塚市教育委員会
『日本歴史地名体系』(大阪府の地名編) 平凡社 |
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吉祥園寺への階段。山門はなかった。 |
観音堂。本尊の十一面観音像は海から貝に乗り出現したとの伝説を持つ。 |
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観音堂の前に建つ宝篋印塔と灯籠。 |
灯篭に刻まれた奉納年月は江戸時代初期の「延宝6年(1678年)」とあり、十六羅漢講が盛んなころに寄進されたものらしい。 |
同じ王子町内にある南近義神社。
祭神は弥都波能売神で、もとは丹生神社とも天野明神社とも呼ばれた。
1907〜09年(明治40〜42年)にかけ近郷の村々の鎮守社など23社を合祀している。
「熊野九十九王子」の内、鞍持・近木両王子が合祀されており、所在がわからないとされている「胡沐新王子」にも何らかの関わりが有るのかも知れない。 |
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和泉三十三ヶ所観音霊場 |
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[2007年2月12日参拝] |
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