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所在地:泉南市信達金熊寺
最寄駅:JR阪和線「和泉砂川」下車、さわやかバス「山方面回り」で「金熊寺」下車 |
当山の開基は682年(天武天皇10年)、役行者が夢のお告げにより、土中より6寸の金銅像を得、自らも4寸の木像を刻し、3間4面の堂を建立して安置したのを始まるとする。
寺名は役行者が当寺の鎮守として金峯・熊野の両神を勧請し、信達神社に合祀したことに因むという。
その後、後鳥羽院(1183〜98年)の熊野参詣の途上に金熊寺権現社に参拝があるなど、鎮護国家の宏大な堂塔であったと言われる。
鎌倉末期の正安元年(1299年)には永仁の徳政令の煽りで焼き討ちに遭い、諸堂が罹災したが、本尊と薬師堂は焼失から免れたという。1312年(応長2年)、1338年(歴応2年)との修復を重ね、元の形に近い形に戻った。
1585年(天正13年)豊臣秀吉の根来攻めの兵火に遭ったが、1654年(承応2年)信達村13ヶ村の人々の善意により再興し、現在に至っている。
1691年(元禄4年)の『寺社境内坪数御改帳』には鎮守社(現信達神社)、薬師堂、観音堂、地蔵堂、神主屋敷などを含め境内は4万7400坪余と記され、広大な敷地であったようである。金熊寺は多くの堂、塔頭を総称する一山であったが、現在は塔頭観音院のみが残り、金熊寺の寺跡を継いでいる。
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[参考資料] 『泉州 和泉西国三十三所めぐり 観音さま』 和泉西国会発行
『日本歴史地名体系』(大阪府の地名編) 平凡社 |
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金熊寺入口。
『金熊寺梅林』と書かれた大きな石碑が建てられている。裏山にある梅林は古くから観梅の景勝地としても有名である。
信達神社の境内に建てられている『信達神社由緒』によると金熊寺権現宮の矢野神主が「この地に梅の木を植えなば神領益々隆昌ならん」との神の教えを受け、一族が相議して梅木を植林したのが現在の金熊寺梅林であるとしている。
この矢野神主は前後の文脈から見て、江戸初期の金熊寺を再建した矢野和泉守と同一人物と思われる。 |
金熊寺本堂。
本尊は役行者自刻の如意輪観音を祀る。
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本堂の前を少し上った所にある行者堂。
当山の開祖役行者を祀る。 |
庫裏と思われる玄関先に金熊寺を継承した塔頭の「金熊寺観音院」と刻まれた石標が建てられてあった。 |
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和泉三十三ヶ所観音霊場 |
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[2007年4月10日参拝] |
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