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所在地:堺市堺区材木町東4丁
最寄駅:阪堺線「妙国寺駅前」下車、東へ徒歩5分 |
妙国寺の創建は、摂河泉を領した三好之康(実休)が京都頂妙寺の日b(にちこう)に帰依、日bの故郷堺で伽藍建立を企図し、寺地を寄進したが、1562年(永禄5年)3月久米田(現岸和田市)で戦死した。 日bは寄進を受けたこの土地に、1566年(永禄9年)父常言からの堂宇造営料の寄進を受け、兄常祐の協力を得て、伽藍造営に着手、1568年(永禄11年)に完成をみている。日bは寺号を頂源寺(現長源寺)の開祖妙国院日祝の院号から「広普山妙国寺」と名付けてその開山となった。
また、1576年(天正4年)には鎮守番神社の造作が始まり、翌年には兵庫築島来迎寺の堂を拝殿として移築、1582年(天正10年)には南・北学問所や等などが造営され、壮大な寺観を整え、後奈良天皇より勅願所に列せられたという。
その後、1615年(慶長20年)大坂夏の陣で罹災、堂宇伽藍は悉く焼失したが、翌年(元和2年)には庫裏を、1627年(寛永4年)には本堂を復興。1658年(万治元年)には三重塔、1665年(寛文五年)に書院、その後客殿、鐘楼などを順次造立している。1843年(天保14年)の『堺寺社覚』には、10坊の塔頭が記録されている。
1868年(明治元年)堺警備の土佐藩士がフランス兵士と紛議を起こし、フランス人を死傷させた事件があり、フランス側が抗議し、藩兵11名が当寺で割腹させられた。この事件は堺事件といい、切腹した11名は当院北側の宝珠院に葬られた。(別ページに記載)
1945年(昭和20年)の戦災で三重塔を始め、大部分の伽藍が焼失したが、国指定天然記念物のソテツは焼失をまぬがれた。 |
三好之康:1527年(大永7年)〜1562年(永禄5年)。戦国時代の武将、三好元長の次男。1544年(天文13年)兄長慶に従い上洛。出家して物外軒実休と称す。阿波・讃岐国を支配し細川持隆を暗殺し、細川真之を擁立、更に久米義張・佐野丹波らも敗死させた。兄長慶に応じて河内の畠山高政を破り、河内国の支配をまかされた。その後畠山高政・根来寺衆徒らの反撃を受け、久米田の戦で討死。
豊かな教養人で茶の湯に対しても造詣が深く、武野紹鴎、千利休、今井宗久、津田宗達らとの交流があった。
日b:1532年(天文元年)〜1598年( 慶長3年)。安土桃山時代の日蓮宗の僧。 父は堺の豪商で油屋常言と呼ばれた伊達常言。日bはその2男。仏門に入り、頂源寺(現長源寺)2世正法院日沾に師事して、佛心院日bと号した。1555年(弘治元年)には京都頂妙寺の招請に応じて第3世を継いでいる。近江三井寺、京都南禅寺、比叡山で勉学し、民衆布教に尽力した。
1579年(天正7年)織田信長が安土桃山で行った浄土宗との宗論に請じられ、日蓮宗側として問答した。 |
[参考資料] |
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妙国寺山門。
脇の石柱には「旧勅願所 本山妙国寺
開運厄除 宇賀徳生龍神 鎮座」とあった。 |
妙国寺本堂。
現在の本堂は鉄筋コンクリート造りで、1973年(昭和48年)に再建された。
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本堂と並んで建つ徳正堂。
開山日b上人の夢枕に立ったという、大ソテツから現れた宇賀徳正龍神を祀る。
立ち並ぶ幟には「南無 宇賀徳正龍神」の他、「心願成就祈願」、「身体健康祈願」、「交通安全」、「商売繁盛」等々が見られ、色々なものご利益があるらしい。
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境内本堂の奥にある大ソテツは1924年(大正14年)国指定の天然記念物。樹齢は1100年と言われ、三好実休が土地と共に寄進したと伝わる。現在の大きさは1番太いもので、直径1m、高いものは7mにもなる。
全体が亀に見立てられている。鳥居をくぐった所が亀の頭。
このソテツの噂を織田信長が聞き及び安土城に運ばせたが、毎夜「妙国寺へ帰りたい」と泣き声が聞こえ、信長は家来に命じソテツを切りつけたところ、切り口から鮮血のような液体が流れ、悶絶の様はあたかも大蛇のようであった。さしもの信長も「元にあったところに戻せ」と命じ、直ちに妙国寺に戻されたという。
近年樹勢の衰えが目立ち始めたため、「妙国寺ソテツ再生委員会」の指導のもと、国などの補助を得て、平成20年より4年間で「天然記念物再生事業」が実施された。 |
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ソテツを詠んだ歌が境内に建てらてている。上の写真は与謝野晶子、右側の写真は徳川家康の歌碑。 |
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妙国寺の境内には、多くのソテツが植えられている。上の写真は小堀遠州が手を入れたと伝わる枯山水の庭。 |