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史 跡
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妙国寺へ
堺事件 所在地:
妙国寺:堺市堺区材木町東4丁
宝珠院:堺市堺区宿屋町東3丁
1868年(慶応4年*)2月15日夜明けに、大阪港内を測量中、無断で堺への上陸を行ったフランス艦デュプレー号水兵と、堺を警備していた土佐藩士とが衝突、土佐藩士の発砲により、フランス側に10数名の死傷者が出た。フランス側は事件に関わった者の処刑、15万ドルの賠償など5ヶ条の謝罪を要求。 当時の政府は、関係者20名の処刑を土佐藩に命じ、土佐藩では警備隊長箕浦猪之吉西村佐平次、隊小頭池上弥三吉大石甚吉 の4名ほか、残る16名は名乗り出た25名の藩士の中からくじ引きで決め、切腹を命じた。
 切腹は、妙興寺境内でフランス軍士官立ち会いのもとに行われたが、凄惨な切腹シーンにフランス士官は、11名が切腹した時点で中止を申し入れた。切腹した11名の遺骸は宝珠院に葬られた。
 「堺事件」に関しては、1914年(大正3年)に森鴎外が発表した『堺事件』が有名で、史実に即していると評価されて、小説の中で土佐藩士が国粋的に美化され、結果として、戦意高揚小説の揺籃となった。
大岡昇平は鴎外が「堺事件」の典拠とした資料(佐々木甲象著『泉州堺土藩士列挙実紀』明治26年発刊)は事実の歪曲があり、結果として史実の捏造があったことを指摘して論じた『堺港攘夷始末』を1984年(照和59年)から『中央公論文芸特集』に掲載した。大岡昇平は志半ばで1988年(昭和63年)に逝去し、作品は未完のまま、翌年刊行されている。
*注 この年の9月4日から年号が明治に改元されたが、「慶応4年をもって明治元年とする」としているため旧暦1月1日に遡って適用されたので、この事件は明治元年に起きたことになる。
[参考資料] 『元皇室勅願所 本山妙国寺縁起』 妙国寺パンフレット
         『宝珠院 現地案内板』 堺市

土佐藩士切腹の場所 妙国寺
妙国寺山門 土佐藩十一烈士と佛国遭難将兵の慰霊碑
妙国寺山門。


妙国寺境内に建つ慰霊碑。
中央に建つ三基の石碑のうち左側は「土佐藩十一烈士之英霊」碑と右側は「佛国遭難将兵慰霊碑」。
この碑は1916年(大正5年)仏首相クレアマンソーが戦死した仏兵の碑を並び建てることを条件に承諾した。
英士割腹跡の碑 明治百年記念碑と植樹
土佐藩士が割腹させられた跡に建つ「英士割腹跡」の碑。この碑は藩士達が切腹したその年の9月に、早くも建てられている。 ここで割腹させられた十一士の氏名が刻まれている。
1068年(昭和43年)明治百年記念の植樹と共に建てられた。

土佐藩士の墓所への道標
妙国寺手前に建つ道標 宝珠院手前に建つ道標
妙国寺山門の手前に建つ道標。
「左 とさのをさむらいはらきりのはか」、「是より東へ半丁 明治戊辰殉難 土佐藩士墓所」とある。
反対の面には「右 名所金光寺藤の明神」とあるが、金光寺は1902年(明治35年)宝珠院と合併し、現存しない。
宝珠院の手前(右の写真の道標と道を挟んで向かい側)に建つ。「戊辰殉難 土佐十一烈士墓所」とある。



土佐藩士の墓 宝珠院
宝珠院入口 土佐藩士の墓
宝珠院入口。境内は幼稚園が併設されている。
現地案内板によると、「宝珠院は三光山と号し、栄亮大僧正の開基。真言宗高野派叡福寺に属し、本尊に虚空像菩薩をまつる」とあった。
土佐十一烈士の墓。かなり風化が進んでいる。
宝珠院に葬られた土佐藩士のために、後日、前土佐藩主山内容堂は墓を建て、法名、実名、行年、辞世の句を刻して追悼した。
十一烈士の墓は1938年(昭和13年)国の史跡に指定されている。
境内に建つ 嗚呼忠烈碑 境内に建つ 佛蘭西兵士之碑
境内に建つ「嗚呼忠烈碑」。1903年(明治36年)の
建立。
境内に建つ「佛蘭西兵士之碑」。フランス兵士の供養
のために建てられたと思われる。
上記の碑文によると、妙国寺境内での切腹をまぬがれた土居八之助(碑文では土井翁)や切腹した箕浦猪之吉の同僚だった後の農商務大臣(碑文では子爵)谷干城らが中心となって、1002年(明治35年)隣接する寺(金光寺)を合併して、墓所を整備している。

史跡-195/TTL-749

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