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所在地:南河内郡太子町太子
最寄駅:近鉄長野線「喜志駅」下車、金剛バスで「喜志循環線」OR
「上の太子」行きで「太子前」下車、すぐ |
当山の創立は明らかでないが、寺伝よれば622年(推古天皇30年)に亡くなった聖徳太子の陵墓を守護し、追福を営むためために建てられた寺で、太子の没後、推古天皇が建立、その後724年(神亀元年)聖武天皇の勅願により、 伽藍を造営したと伝わる。
一連の太子建立伝説を持つ、羽曳野市野々上の野中寺を「中の太子」、八尾市太子堂の大聖勝軍寺を「下の太子」と呼ぶのに対し、当寺は「上の太子」と俗称されている。
境内北方の磯長墓には621年(推古天皇29年)に亡くなった太子の生母穴穂部間人皇后(あなほべのはしひと)、翌年2月に相次いで亡くなった太子と、妃の膳部大郎女(かしわべのおおいらつめ)の3人が合葬されている。
平安時代以降、聖徳太子信仰の霊場となり、空海、親鸞、良忍、一遍、日蓮、証空等々その時代を代表する名僧・高僧が多く訪れている。戦国時代末期には織田信長の焼き討ちにより全焼、その後豊臣秀頼により聖霊殿が再建されるなど、信奉者の寄進により、次第に伽藍の再建が進み、現在の堂宇の形に整えられた。
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[参考資料] 『河内国 上之太子 磯長山 叡福寺縁起』 叡福寺パンフレット |
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「南大門」は府道を挟み、新西国霊場第8番西方院と向き合ってある。線に面している。
この南大門は叡福寺の堂宇の中では新しく、1958年(昭和35年)の再建で、門の扁額の揮毫は当時の総理大臣岸信介の筆による。 |
「金堂」には本尊の如意輪観世音菩薩。横には四天王と不動明王、愛染明王が立つ 。
この金堂は江戸・中期の1732年(享保17年)の再建であることが、遺されている棟札で確認されている。 |
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「多宝塔」は1652年(承応元年)の再建。
「聖霊殿」と共に、国の重要文化財の指定を受けている。 |
聖徳太子を祀る「聖霊殿」。太子堂とも呼ばれる。参拝した当日は聖徳太子の月命日で、堂の中に上がって参拝できた。1603年(慶長8年)豊臣秀頼の再建。 |
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(左)聖徳太子の御陵の前にある「二天門」。1688年(元禄元年)丹南藩主・高木主水正が寄進した。
(中央)「聖徳太子御廟」。丘陵を利用した円墳で、、内部は横穴式石室
(右)「墳墓の周りの結界石」(柵の向こう側の石柱)。この結界石のもとは空海が百か日の参篭を行ったとき、一夜にして築いたと伝わる。石柱には経文が刻まれており、現在のものは江戸時代に作られた。 |
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河内33ヶ所霊場 |
新西国33ヶ所霊場 |
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[2004年10月11日参拝] |
[2004年10月11日参拝] |
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