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所在地:大阪府八尾市太子堂3丁目
最寄駅:JR大和路線「八尾」下車、藤井寺行きバスで太子堂下車、国道25号線を西へ200M。徒歩ではJR「八尾」駅から約15分 |
当山は聖徳太子の創建と伝わり、南河内郡太子町にある叡福寺を上の太子と呼ぶのに対して、下の太子あるいは太子堂と呼ばれる。寺伝によると聖徳太子が河内国渋川の阿都の館にいた物部守屋を討つ際、戦況が一時不利になったが、この地の椋樹の蔭に隠れて難を逃れ、後に信貴山毘沙門天に祈願し、4天王を祀り勝利したため当寺を創建したという。
後に、推古天皇は椋の木の徳を称え、山号を「神妙椋樹山」とし、太子が戦勝を得たことから「大聖勝軍寺」の寺号を贈った。756年(天平勝宝8年)聖武上皇は「鎮護国家寺」の称号とともに勅願寺に定めた。
縁起によれば、当初は寺域16町を有し、上宮王院、清涼院、日羅院、地蔵院、修善院などの支院を持っていたが、後世数度の兵火に遭い、縮小している。
門前の池は、秦河勝が物部守屋の首を洗ったとの言い伝えがあり、守屋池あるいは守屋首洗池という。また、当寺の近くには守屋の墓がある。
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[参考資料] 『勅願所 大聖勝軍寺』 大聖勝軍寺パンフレット
『日本歴史地名体系』(大阪府の地名編) 平凡社 |
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奈良街道(国道25号線)に面し、山門がある。 |
山門の横に建てられている聖徳太子像と4天王像。 |
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境内の中心にある本堂「太子殿」。
守屋との戦い後、太子は仏法の「和の精神」を後世に伝えるため、太子堂を建立。自から16才の肖像を刻み、安置したと伝わる。 |
「毘沙門堂」。太子が一時信貴山に難を逃れ、戦勝祈願し下山後、毘沙門天の化身が現れ、稲城攻略に神技の働きをした戦後、太子は毘沙門天を刻み毘沙門堂に祀ったと伝わる。 |
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激戦の跡をとどめる、太子の馬の蹄痕と伝わる。 |
当山の山号の由来の「神妙椋樹」。
聖徳太子の軍勢は守屋の軍勢の前に3度敗退、大軍に包囲され絶体絶命の窮地に陥った時、椋の大木が真っ二つに割れ、太子はその幹の空洞に身を潜め、九死に一生得たという。 |
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聖徳太子の御影 |
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河内三十三ヶ所観音霊場 |
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[2004年8月18日参拝] |
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