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史 跡
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・07/6/19
 「稲城址」石碑写真を
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物部守屋の墓 所在地:大阪府八尾市太子堂
最寄駅:JR大和路線「八尾」下車、藤井寺行きバスで太子堂下車、
国道25号線を西へすぐ、国道に面し右手(北側)にあり
物部守屋は欽明朝の大連物部尾輿の子で敏達朝・用明朝の大連。母は弓削氏の女阿佐姫と伝えられ、『日本書紀』には物部弓削守屋大連とみえる。
敏達天皇の時代に、仏教の受容に積極的態度をとる蘇我馬子と対立し、中臣勝海とともに排仏を主張して、寺院や仏像を焼き捨てたとある。
 古来より、蘇我・物部両氏の対立は、仏教受容の可否をめぐる争いを中心に語られることが多いが、これは仏家の教化的意図を中心とした説話にもとづくと考えられ、『日本書紀』にみえる守屋の排仏行為もそのまま史実と考えられず、権力闘争に勝った側の意図が反映しているものと思われる。
また、権力闘争に負けた守屋の墓が守られ現存することは、時の権力者に対しては、反骨精神を発揮する大阪人のルーツを見る思いがする。
 『日本書紀』によると、587年(用明天皇2年)4月、用明天皇が崩御し、その皇嗣問題をきっかけに馬子との間に武力衝突となった。5月、守屋は、欽明天皇の子、穴穂部皇子を立てて天皇にしようとし、淡路に遊猟して事を謀ろうとして、皇子に使者を送ったが、事は漏れてしまった。6月、馬子は炊屋姫を奉じ、佐伯連、土師連、的臣らに詔して、穴穂皇子と宅部皇子の殺害を謀り、2人の皇子を殺した。
7月、さらに馬子は諸皇子と群臣に勧め、守屋を滅ぼすことを謀り、泊瀬部皇子竹田皇子厩戸皇子らと、紀、巨勢、膳、葛城、大伴、阿倍、 平群、坂本、春日の諸氏とともに軍を率い、河内・渋川郡阿都の守屋の家を襲った。
守屋は自ら子弟と奴軍を率い、現在の八尾市南木の本付近に稲城を築いて戦い、皇子たちと群臣の軍を三度にわたり退けたものの、 奮戦むなしくついに迹見赤檮(とみのいちい)に射落とされ、その子らも殺され、軍は四散した。
馬子との戦いでは、『朴の枝間に昇りて臨み射ること雨の如し』と描かれている。

物部守屋の墓 大聖勝軍寺より国道25号線を100m程東に進んだところに物部守屋の墓がある。
墓の周りの玉垣には全国の有名な神社がこぞって寄進している。神社=物部守屋、寺院=聖徳太子の図式が出来上がっているようである。

守屋首洗池 守屋首洗いの池


大聖勝軍寺の境内(門前)にある「守屋池」。
この池は聖徳太子が迹見赤檮に鏑矢で守屋を射させ、
秦河勝がその首を取って、この池で洗ったとの伝えがあり、「守屋首洗池」とも呼ばれる。




鏑矢塚と弓代塚
鏑矢塚 弓代塚
国道から南側へ少し入った飲食店が密集している場所に守屋を射た鏑矢を埋めたと伝わる『鏑矢塚』がある。
龍華中学校の南側、高圧線の鉄塔の回りが空き地になっており、そこに守屋が迹見赤檮の弓に撃たれたと伝わる『弓代塚』があった。

物部守屋の稲城址 稲城跡の石碑
八尾・光蓮寺
光蓮寺は若江山と号し、浄土真宗本願寺派の末寺。
光蓮寺は守屋の滅亡後、その館を寺としたのを起源とする。その後若江郡若江村に転じ、兵火に遭ったため1477年(文明9年)に現在地に遷ったと伝わる。
八尾市南木の本(旧字名を城の跡という)光蓮寺の前に「稲城址」の石碑が建てられている。聖徳太子が物部守屋の館のあった阿都桑市を攻めたとき、守屋はこの地に城を築き抗戦したという。稲城の謂れは稲で囲った城とも、稲積みの城であったとも伝わる。この碑は1939年(昭和14年)個人の手により建てられている。

史跡-044/TTL-236

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