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寺院めぐり
寺院めぐり 野中寺
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慈雲尊者の足跡へ
青龍山野中寺 所在地:羽曳野市野々上5丁目
最寄駅:近鉄南大阪線「藤井寺」下車、循環バス「野々上」下車すぐ
野中寺(やちゅうじ)は聖徳太子建立48寺院の1つとされ、蘇我馬子が造立したと伝わる。
俗に叡福寺の「上の太子」、大聖勝軍寺の「下の太子」に対し、「中の太子」と呼ばれ、河内3太子の1つである。この寺の護持は、丹比郡野中郷を本貫とする渡来系氏族の船氏が当たっていたとも、同氏の氏寺であったとも言われる。
 寺伝によれば、南北朝の兵乱により、伽藍はことごとく灰燼に帰しており、再興は江戸時代に入ってからになる。
 寛永〜寛文年間(1624〜73年)に山城の国の政賢覚英が大和西大寺の慈忍慧猛を招聘し、戒律道場として再興、勧学院と称し、律宗の高揚につとめた。泉州の神鳳寺、山城の西明寺と並んで、江戸時代の戒律の3大僧坊といわれ、丹南藩主高木氏狭山藩主北条氏の帰依を受け、後には大和郡山藩主柳沢氏の帰依もあったと伝わる。
 江戸時代末期の偉大な学僧で、学徳兼備の名僧とうたわれた慈雲尊者も修行時代の1738年(元文3年)21歳の時、ここ野中寺で具足戒を受けている。
現在の宗派(高野山真言宗)に転じたのは1887年(明治20年)以降のことである。

[参考資料] 『中の太子 野中寺』 野中寺パンフレット
         『日本歴史地名体系』(大阪府の地名編) 平凡社
野中寺山門 山門から本堂を望む。
山門の手前(南側)には、創建当時の中門の遺構(礎石)が残る。
現在の堂宇の大半は享保年間(1716〜36年)の建立。
寺宝として、白鳳期の金銅弥勒菩薩像(重要文化財)、鎌倉期の地蔵菩薩像(重要文化財)などを保有する。
野中寺本堂
野中寺方丈 野中寺の僧坊は、律宗本山野中寺道場と称していたときの時の遺構で、当時のままの状態で遺されており、大阪府の文化財に指定されている。
写真の方丈は大和郡山藩柳沢候の別邸を移築した。


野中寺勧学院扁額 
 方丈に架けられていた
 「勧学院」の扁額
野中寺比丘寮 野中寺さざんかの木
幾多の僧が修行に励んだ比丘寮。 大阪府の天然記念物 「山茶花」。比丘寮の正面に咲く。
野中寺礎石-1 野中寺礎石-2
境内に創建当時の伽藍の礎石が残されている(国の史跡指定)。法隆寺と同じ伽藍配置で左側の写真は金堂跡、右側は塔跡という。特に、右側中央の塔礎は3方に添柱座を彫り込み、更に側面に横穴式舎利を納める小孔がうがってあり、他に類は無いそうである。
お染久松の墓(野中寺) 野々上八幡神社
お染久松の墓墓石には戒名が記され、裏には俗名と「享保7年(1722年)10月7日建立 大阪東掘天王寺屋権右衛門」と記されている。17回忌に建てられたという。お染久松の供養塚は野崎観音(慈眼寺)にもある。 野中寺に隣接してある野々上八幡神社。
祭神は八幡大菩薩。南北朝の争乱で、野中寺とともに焼失。寛文年間(1661〜73年)に野中寺復興の折、お寺の鎮守として再建されたが、明治初年の神仏分離令で、野中寺と分かれた。一旦大津神社に合祀されたが1948年(昭和23年)当地に復帰、現在に至る。
ご朱印
聖徳太子遺跡 中の太子
野中寺朱印
[2005年6月1日参拝]

寺院-138/TTL-394

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