慈雲尊者は大阪が生んだ江戸時代末期の偉大な学僧で、学徳兼備の名僧とうたわれた。1718年(享保3年)大坂の高松藩蔵屋敷において上月安範の第7子として生まれた。諱は飲光(おんこう)、字は慈雲、号は百不知童子・葛城山人を名乗った。
13歳で仏門に入り、法楽寺忍網貞紀和上に従い出家した。16歳から足掛け3年、師命により、伊藤東涯や、儒学者たちを訪ね、儒学・詩文を修めた。19歳以降は戒律の道場として有名な野中寺にて修行。21歳、野中寺にて具足戒を受け、22歳には慈雲と改名、貞紀和上から附法灌頂を受け、法楽寺の住職となった。しかし、生来付き合い下手であった、慈雲は寺務が苦手、学問の魅力にもとりつかれ、僅か2年で、地位を同門に譲り、各地の寺院に足をとどめながら、学問修行一筋の生活に入っている。
慈雲は一つの宗派にとらわれない超宗派の立場をつらぬき、しかも実地の坐禅修行にも学問としての仏教にも深く通じた人であった。
著書には『方服図儀』、『十善法語』12巻などを著し、梵学研究研究に古今独歩の境を開いて『梵学津梁』1000巻編著し、晩年には「雲伝神道」と称せられる神道説を開始した。
特に、『梵学津梁』1000巻は、インドの原典を注釈した膨大な文典で横書き、アルファベット索引付きという、驚異的,内容である。1898年(明治31年)フランスの梵語学者シルヴェンレヴィ氏が来日した折、たまたま話を聞いて高貴寺を訪れ、『梵学津梁』を出来映えを見て驚き、世界に類を見ないすばらしい著作として、広く海外に紹介したため、慈雲尊者の業績は広く世界に知られるようになった。
名誉や地位を嫌い、自然を友として、超人的な業績を残した慈雲尊者は、1804年(文化元年)87歳の長寿を全うし、京都・阿弥陀寺でその生涯を終えた。 |