大阪再発見の表紙に戻る
霊場参拝
河内三十三ヶ所 河内西国観音霊場
特別客番
ロゴをクリックすれば
一覧表に戻ります
慈雲尊者揮毫(1)へ
慈雲尊者揮毫(2)へ
慈雲尊者の足跡へ



神下山高貴寺 所在地:大阪府南河内郡河南町平石
最寄駅:近鉄長野線[富田林駅]下車、金剛バス「平石行」終点より
徒歩で約1KM
当山は、今から約1200年前、役行者によって開基された葛城連峰行場28ヶ所の中の1つで、「香花寺」と称したと伝わる。後に、弘法大師空海が来山、密法修業中に高貴徳王菩薩を感得し、高貴寺と呼ぶようになった。(空海が高貴寺に仮寓していた折に、「叡福寺」聖徳太子廟前にて100日間参籠している)
 空海は嵯峨天皐の勅を奉じて金堂・講堂・東西両院・経蔵・鐘楼・食堂・二王門等を創建して堂塔大いに整い、のち、大徳智泉鳥羽僧正範俊らの高僧が来住し、11〜12世紀までは法灯は四方に輝いたと伝えられる。
 1331年(元弘元年)当寺の支援者である平岩氏が平石城に拠って関東軍と戦った折、当寺は兵火にかかり、堂宇はことごとく焼失し、以来寺運振わぬまま近世に至った。
 江戸後期の安永年中に慈雲尊者が来住し、僧坊を整備、正法律宣布の根本道場に一新した。1786年(天明6年)幕府の許可を得、高貴寺は正法律一派総本山となった。
慈雲尊者が当寺に住したのは1773年(安永2年)から1804年(文化元年)87歳で遷化した30年間に及んでいる。

[参考資料] 『河内西国巡礼』 河内西国霊場会編
高貴寺山門

高貴寺の朱塗りの山門(総門)。傍らに慈雲尊者揮毫の石標が建っている。



高貴寺参道
 総門から、金堂に向かう参道。
 左側の土塀の内側には学寮、
 本坊などがある。 。


金堂には本尊の五大明王のほか、脇侍、役行者、理源大師像が安置されている。


高貴寺本堂扁額
 本堂に架かる「高貴寺」扁額は
 空海の筆になると伝わる。
高貴寺本堂
高貴寺開山堂 高貴寺奥の院御影堂
金堂のとなりにある開山堂。室町時代の建造物と推定されるも年代不詳。慈雲尊者の等身像を安置。 奥の院御影堂。弘法大師座像が安置されている。
慈雲尊者の墓 柳沢堯山埋髪の碑
慈雲尊者霊廟。京都阿弥陀寺で亡くなった尊者の遺体は、郡山城を経由して運ばれ、ここ高貴寺の奥の院に埋葬された。墓は五輪塔である。 慈雲尊者に帰依した大和郡山藩主柳沢甲斐守保光の遺髪が納められている遺髪碑。歌は『迷うべき筋こそなけれ鳥羽玉のわが髪をはらひすてつゝ 尭山』とある。
ご朱印
河内三十三ヶ所観音霊場
高貴寺朱印
[2004年10月11日参拝]

寺寺院-092/TTL-289

1つ前に戻る このページの上に戻る 表紙に戻る

Copyrightc2015.Yoshi Planning.All rights reserved. 写真及び文章の無断使用は禁止します。