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所在地:大阪府大東市野崎2丁目
最寄駅:JR学研都市線「野崎」下車、東へ約700M、旧170号線を
越え、突当り |
慈眼寺(じげんじ)はその寺名とは別に、「野崎観音」と呼ばれ、その名前の方が有名である。
(因みに、平成22年に実施された『大阪検定1級』試験で、野崎観音の寺号(お寺の名前)を書く問題では、全問題中最低の正解率(11%)であったとのことである)
(縁起は古く、天平勝宝年間(749年〜757年)に行基菩薩が本尊の十一面観音像を自刻し、安置したのを開基とする。また、その観音像は大和・長谷寺と同木であると伝わる。
その後、幾多の戦乱のため荒れ果て、特に1565年(永禄8年)三好・松永の兵によって全焼し、本尊の
観音像だけが残り、長い間小さいお堂のままで祀られていたが、1616年(元和2年)青厳和尚が復興し、元禄・宝永の頃(1668〜1710年)に野崎参りが盛んになると共に、寺も栄え、現在に到っている。
本堂横のお堂に江口の君が祀られているが、平安末期の頃(1160年前後?)、江口の君が、長の患いに苦しみ、大和の長谷観音に病気平癒の願をかけたところ、河内の慈眼寺に参って祈るがよいと教えられ、早速参籠し、七昼夜籠もって祈ると、たちまち難病が治ったという。
喜んだ江口の君は感謝のため、堂を寄進することにした。その頃慈眼寺は現在の門真の地にあり、低地
でいつも洪水に悩まされていたので、寺地を現在の地に移して堂于を再建した。この故事から、慈眼寺では江口の君を中興の祖としている。
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[参考資料] 『のざき観音 慈眼寺』 慈眼寺パンフレット |
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境内の南側にある楼門。春には階段の両脇にある桜の花が見事に咲く。 |
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お寺のパンフレットによれば、この本堂は、1970年(昭和25年)、19世一峰和尚が河内一円を托鉢し、浄財を募り、大龍寺(東大阪市日下町)の観音堂を譲り受け、移築したとの |
本堂の横にある「江口の君堂」。
ご婦人の病には霊験あらたかといわれる。 |
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野崎観音は芝居、落語、歌謡曲などの舞台に度々登場する。近松半二の「新版歌祭文」〔1780年(安永九年
)竹本座で初演〕に登場する、お染・久松の「供養塚」が
境内にある。(お染・久松の墓は野中寺にある)
個人的には、「野崎参り」といえば、小学生の頃見たミュージカル仕立ての映画「エノケン・笠置シズ子のお染久松」が一番印象に残っている |
戦前、東海林太郎の歌で大ヒットした「野崎小唄」の歌碑。碑文の書はこの歌を作詞した今中楓渓。
彼は小生の出た中学校の校歌も作詞をしていたことを思い出した。今中楓渓氏は当時寝屋川高校の校長か教頭の要職にあり、近在の学校の校歌を多数作詞している。 |
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河内三十三ヶ所観音霊場 |
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[2003年12月3日参拝] |
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