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所在地:大阪府東大阪市日下町8
最寄駅:近鉄奈良線「石切駅」から北へ、約1000M |
当山の縁起は598年(推古6年)聖徳太子が自作の観音像を安置、創建したと伝わる。古くは厳松寺
(げんしょうじ)と称していた。南北朝の時代には後醍醐天皇より、若干の寺田が寄進され、足利尊氏や足利義満よりも寄進を受けるなどした。応仁の乱の戦火で堂宇が焼失しその後再興されたが、大坂の陣で再び烏有に帰した。
江戸時代に入り、1626年(寛永5年)観音堂が建立されたが、住持はなく村中支配であった。1681年(元和元年)に京都・南禅寺派光雲寺の末寺となり、その後1685年(貞享2年)黄檗の僧別伝が住持となり万福寺末寺となった。
1686年(貞享3年)夏、旱魃が続いたため、黄檗の高僧、奉宗元雄禅師が雨乞いをしたところ、たちまち雨が降り大龍が宮中に現れたというところから寺号を大龍寺と改めたと伝わる。
俗に『日下のくわんのん』と称し、十一面観音を本尊として村人の尊崇をあつめていたが、泰宗禅師が大阪の豪商天王寺屋吉兵衛を大檀那としてその浄財寄捨によって堂宇を再建、泰宗はその師法雲寺(堺市美原町)開山の慧極道明(えごくどうめい)禅師を請じて開堂し、自ら第二世となった。棟札により現伽藍は1695〜1700年(元禄8〜13年)にかけての建立と判明している。
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[参考資料] 『現地解説板』 東大阪市作成
『日本歴史地名体系』大阪府の地名編 平凡社 |
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当山は生駒山系の中腹にあり 、ここまで登ると集落も
まばらになり、都会の騒音も聞こえず、静かなたたずまいである。総門は1700年(元禄13年)の建立。 |
仏殿は総門と同様、1700年(元禄13年)の建立になる。現地の解説板に「当院は黄檗様式の整った伽藍配置を残し、建築には万福寺大工棟梁秋篠の関与が知れる事から、仏殿、斉堂、開山堂、総門は市の文化財に
指定されている」とある。 |
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木々に囲まれた開山堂。堂内には慧極、奉宗と大檀那
天王寺屋吉兵衛の像が祀られている。 |
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河内三十三ヶ所観音霊場 |
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[2004年1月9日参拝] |
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