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史 跡
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中将姫供養塔 所在地:東大阪市大蓮東1丁目
最寄駅:近鉄大阪線「弥刀」下車、西側出口を約200m、
南西方向へ約300m。金岡中学校及び駐車場を過ぎて、すぐ右側
東大阪市大蓮東1丁目の住宅地内に中将姫の供養塔と伝わる石塔がある。
『大阪府全志』によると、「大和国・當麻寺で中将姫が曼荼羅の奉納を発願した時、まだ17歳の身で曼荼羅を織るに必要な100駄もの蓮茎を集めることが出来ず、父藤原豊成公は孝謙天皇に願い出た ところ、天皇は近江・河内・大和の三国に良質の蓮糸を探して納めよとの詔を出された。その結果、河内の渕側池の蓮が選ばれ、たちまち90余駄が姫のもとに届けられた」という。
ここでいう駄という単位の量的なものはよくわからないが、馬一頭に乗せる荷の量(鞍に1束、腹の左右に1束ずつ振り分けて、計3束)を一駄と言ったらしい。いずれにしても大量の蓮茎が當麻寺に運び込まれている。
 異説には、当地には逆境にあった幼い中将姫を守り続けた姫の産婆が住んでいた。蓮糸は彼女が姫に献納したとも伝わる。
 河内の蓮側池は当地にあった古池で、地名の大蓮というのもこの故事に因むともいい、また一説には当地に在った大蓮寺(明治6年に廃寺)に由来するともいう。
 余談だが、現在では当地の地名をオオハスと発音するが、筆者が若いころはオバツジと呼んでいた。難読地名の1つであったが、1971年(昭和46年)からの住居表示で変更になっている。

[参考資料] 『大阪伝承地誌集成』 三善貞司著 清文堂
住宅街の一角ににある中将姫供養塔の全景 供養塔は住宅街の一角に中将姫を祀った祠と玉垣に囲まれて在る。
一説にはこの辺りは18(明治6年)廃寺となった大蓮寺の跡とも伝わる。
供養塔と言われる石塔の竿石部分の正面に「石経法華塔」とあり、三方には銘文が彫られている。
真裏側は生垣が邪魔をしてよく見ることが出来なかったが、左右両側を一見したところ中将姫に関する記述は見当たらなかった。

中将姫供養塔と伝わる石塔
右側面の銘文によると「宝暦四年(1753年)」に建立されたらしいが、 台の裏側には「正文九年亥十月 第二 正法建之」とあり、文面通りであると正文9年に正法と言う人が建立したことになるが、正文9年に該当する年号が手持ちの資料では見当たらず、この年号は何を現わしているのかは不明である。

史跡-193/TTL-729

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