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史 跡
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[更新記録]
 ・11/10/22
交野城跡を光通寺から別ページに分け,写真を追加。
光通寺へ
交野城跡 所在地:交野市私部5丁目
最寄駅:京阪交野線「交野市」駅下車、東へ約500M
河内33所17番札所光通寺の北側はかっては交野城があった。交野城は私部城ともいい、河内守護畠山高政の下で永禄年間(1558〜70年)守護代を務めた安見直政の居城と伝える。 私部の西南寄りに約45m四方に土塁を巡らし、外溝に濠を巡らせた城跡があり、保存状態も良い。
 安井氏は鎌倉初期に若狭国安見庄から当地に来住、南北朝の初めは南朝方であったが、その後北朝方に転じて活躍、応仁の乱後も当地を本拠としたが、天正年間(1573〜92年)初めに滅びたという。
守護代時代は飯盛城主であったが同城落城後の去就は不詳、のち織田信長の臣下になったという。
 1969年(昭和44年)の発掘調査では、弥生中期の遺跡も発見され私部城跡遺跡と呼ばれる。その調査の際、私部城土塁築造時の置土と思われるものや大坂の陣により焼き払われたと伝える光通寺の礎石らしきものが出土している。
[参考資料]  『日本歴史地名体系』(大阪府の地名編) 平凡社
私部城址の碑 石垣に使用したと思われる石
交野城跡に建つ「私部城址」の碑。 築城に使用したと思われる石があちこちにみられる。
交野城跡 切り通しOR堀跡
城跡と思われる個所は空き地や畑になっている。右の写真の畑の部分は両側に比べ1段低くなっており、切り通し若しくは堀跡と思われる。

史跡-196/TTL-750

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