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所在地:交野市私部5丁目
最寄駅:京阪交野線「交野市」駅下車、東へ約500M,
想善寺北側 |
当山は寺伝によると南北朝時代、後村上天皇の勅願により、播磨の守護大名赤松円心が檀越となり、臨済宗の別峰大殊が開山したといい、当山には別峰宛の後村上天皇宸翰消息を伝えるという。
ただ、『交野市史』には、赤松円心、別峰、後村上天皇の3人の年齢差(円心と別峰は42歳差、円心と後村上天皇は50歳)から、後村上天皇が即位された時期、円心は足利尊氏から守護職を与えられており、あえて南朝の天皇のために寺院建立の資金を出すことも無かったのではないかと思われこと、また別峰が初めて当山に来たのは円心が死んでから50余年が経過してからであることなどにより、この光通寺の開山にまつわる伝えを疑問視している。
しかし、後村上天皇と別峰との結びつき(天皇は別峰に円光国師の号を贈っている)や、円心が播磨国に創建したと伝わる宝林寺には、円心と別峰の像があるなど、それぞれが接点を持っていたのかもしれない。 別峰は1402年(応永9年)8月、82歳でここ光通寺で没しており、境内にその墓がある。
光通寺は室町時代中期、別峰開基の寺として隆盛し、足利義持は1411年(応永18年)将軍家祈祷所として寺領を安堵し、1492年(延徳4年)土御門天皇は勅願所としている。
大坂の陣の兵火で堂塔の一切が焼失したと伝えるが、元禄の頃覚海が中興、資を募り再建に着手、先ず1699年(元禄12年)に鐘をえたが、本堂がならないうちに没し、次の代の住職見住の1720年(享保5年)諸堂の完備を見るに至った。 |
赤松円心(1277〜1350年):播磨国佐用郡赤松村(現兵庫県赤穂郡上郡町)の地頭代官を本貫とする4代目。名は則村(円心は法名)。後醍醐天皇側につき鎌倉幕府打倒に加担し、元弘の乱で六波羅を攻め、その功績により播磨の守護職となる。後には、後醍醐天皇より守護職を取り上げられたことから足利尊氏につき、白幡城に拠って新田義貞の追撃を阻止し、これが楠木正成の湊川合戦での敗因に繋がり、尊氏の室町幕府創設の道を開くことになったといわれる。
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[参考資料] 『交野市史』 交野市編
『日本歴史地名体系』(大阪府の地名編) 平凡社 |
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光通寺山門。
この山門にはバリケードはしてあり、ここからは入れなかった。 |
光通寺本堂。
本尊は聖観音菩薩像。後村上天皇と土御門天皇の位牌がまつられている。 |
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別峰和尚の寂照塔(左側)。
墓標には「応永九壬午年」の銘がある。 |
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河内三十三所観音霊場 |
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[2008年2月25日参拝] |
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