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史 跡
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弘川寺へ
長柄の人柱 所在地:南河内郡河南町弘川 「弘川寺」境内
ここ弘川寺境内には、西行法師の歌碑のほか、西行を詠んだ歌碑や句碑が沢山建てられている。
 西行法師は1118年(元永元年)田仲の庄(現和歌山県那賀郡打田町)で武家の家に生まれ、佐藤義清(のりきよ)という。18歳のときに宮中に北面の武士として平清盛らと同じ鳥羽天皇の警護の職に就くが1140年(保延6年)23歳の時無常を感じて出家する。
 高野山、晩年には伊勢を本拠として、諸国を行脚遍歴し、その足跡は東は陸奥から、西は中国、四国に及んでいる。
 最晩年の1189年(文治5年)弘川寺に来住。翌年1190年(建久元年)2月16日、桜の花の盛りの満月の夜、弟子慈円らに看取られて、ここ弘川寺で73歳の生涯を閉じた。
 述懐歌にすぐれ、新古今集には94首と最多歌数が採録されている。家集に『山家集』『聞書集』『残集』『山家心中集』など。
 なお、西行法師と江口の君との歌問答の歌碑が、大阪・東淀川区「寂光寺(江口君堂)」の建てられている。
[参考資料]  『西行法師終焉地 弘川寺』 弘川寺パンフレット
西行法師の歌碑-1 西行法師の墳墓の傍に建つ歌碑。
金沢の歌人尾山篤二郎の揮毫による西行法師の『願わくは 花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ』が刻されている。
この歌に見られるように西行法師=桜のイメージは強い。
1732年(享保17年)2月、ここを訪れた似雲法師が、西行法師の墓を探し当て、西行を慰めるため、墓の周りに桜の木を1000本を植えたと伝えられる。
1989年(平成元年)西行法師800年遠忌を記念して弘川寺境内から続く山に約1000本の桜が植樹され、桜の名所となっている。
西行法師の歌碑-2 西行法師の歌碑-3
西行法師の墳墓の傍にある西行の歌碑。『仏には 桜の花を奉れ わが後の世を 人とぶらはば』
この碑の揮毫は佐々木信綱の筆による 。
西行堂の傍らにある川田順の筆になる西行の歌碑。
『年たけて 又越ゆべしと思ひきや 命なりけり 小夜の中山』。石に鉄分が入っていると見え、表面に錆が出ている様に見える。
佐沢波弦歌碑
鎮守堂の前にある佐沢波弦の歌碑。『時じくに 松風のおと すみひゞく 西行人の おきつきどころ』
似雲法師歌碑 安田章生歌碑
似雲法師の墓前にある似雲自筆の歌碑。『尋ねえて 袖に涙のかかるかな 弘川寺に残る古墳』。石に含まれている鉄分のためか表面が錆付いている様に見える。 似雲法師の墓の近くにある安田章生の歌碑。『西行人のみたまつつむと春ごとに 花散りかゝる そのはかのうえ』
松瀬青の句碑 阿波野青畝句碑
西行堂の近くにある松瀬青々の句碑。『鶯や いつの世までを さびしさに』 似雲法師が居住したと伝わる「花の庵」跡に建つ阿波野青畝の句碑。『いくたびの 春の思い出 西行忌』

史跡-065/TTL-298

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