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史 跡
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[更新記録]
・04/11/28 「天野屋利兵衛之碑」の写真追加
赤穂義士墓所へ
天川屋利兵衛の墓 所在地:
「薬王寺」墓地:大阪市中央区中寺1丁目
「天野屋利兵衛之碑」:大阪市中央区本町橋
赤穂義士の討ち入りが成功した裏には多くの協力者が居たとされるが、天野屋利兵衛もその1人で、大石内蔵助から義士復讐の話を聞き、討ち入りに必要な武器一式を取り揃えたとされる。芝居や映画などでは、これらの武器を鍛冶屋に発注した折、 不審に思った鍛冶屋が奉行所に密告したため、利兵衛は捕えられ、発注の経緯を吟味されるが、利兵衛は厳しい拷問に遭いながらも『天野屋利兵衛は男でござる』と啖呵を切り白状せず、内蔵助らの義挙を 助けるという、名場面でもある。
しかし、これらのことは全くの作り話で、天野屋利兵衛は芝居が作り出した人物で、実在しないとの言うのが定説なっている。
 ところが、天野屋利兵衛のモデルになったといわれる人の墓が、大高源吾の墓のある薬王寺に存在する。大高源吾の墓を訪ねた際、お寺の方から 「天野屋利兵衛のモデルになった人のお墓がありますよ」といって、案内して頂いたのが下の写真の墓である。
 この人は大坂・内淡路町の商人で生前「天川屋利兵衛」 と名乗った人物で、天川屋は代々町年寄りを勤めており、土地の名士であった。彼は1718年(享保3年)に亡くなっており、彼の生きた時代が丁度、赤穂義士の時代と重なることから、天野屋利兵衛のモデルとされたのかも知れない。
彼が竹本座のスポンサーであったところから、自分の登場を売り込んだとの話もあるが真偽は定かではない。
 天野屋利兵衛の墓はこの薬王寺の他、東京・泉岳寺 と京都市北区・地蔵院(椿寺)及び下京区・聖光寺にもある(京都のお寺の人物は、薬王寺の天川屋利兵衛とは違う人物のようである)。
又、利兵衛の出身地と伝えられている岡山県英田郡西粟倉村には討ち入りに武器を作った「たたら製鉄
跡」と大石内蔵助が武器を受け取った際、利兵衛に感謝を込め、色紙を贈ったのが、地元の寺院に残っているそうである。 

[参考資料] 『にしあわくらの民話 西粟倉村ホームページへ
天川屋利兵衛の墓-1
天川屋利兵衛の墓は手前の小さな墓である。
お寺の方のお話では現在でも天川屋の子孫を名乗る人
が定期的にお参りに来られるそうである。


天川屋利兵衛の墓-2



 墓石には、戒名が
 「妙法宗利日貞霊」と
 彫られている。
上記の墓の周りには、一族の人々の墓が多くある。
この墓の下の台座には「天川屋甚右衛門」の名前が見られる。
天川屋利兵衛の墓-3
義侠 天野屋利兵衛之碑
天野屋利兵衛の碑 天野屋利兵衛の碑の裏面
大阪市中央区本町橋「マイドームおおさか」の裏手にあたる、緑地の一角に「義侠 天野屋利兵衛之碑」がある。
天野屋利兵衛の屋敷が東横堀川に架かる大手橋(通称思案橋)のたもとにあったとの伝承に基づき、現地に建てられたものと思われる。非常に大きな石碑で、台座の横幅は4m、高さは2m近くもある。
碑は1939年(昭和14年)8月に建てられており、表の揮毫は公爵近衛文麿となっている。この当時は日中戦争のさなかでもあり、近衛文麿は翌年には第2次近衛内閣を発足させており、世の中が騒然としていたと思われるが、どのような経緯で筆を取ったのだろうか。
裏面の碑文は頼 山陽の父の頼 春水の文に基づき、小倉正恒(戦前の住友財閥最高責任者(総理事)で、第2次近衛内閣で国務大臣、第3次近衛内閣で大蔵大臣をつとめた)の書になるが、何故か碑文の大半が削られている。

史跡-077/TTL-311

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