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史 跡
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茨田の堤(1)へ
茨田の堤(2) 所在地:
茨田の堤碑:寝屋川市太間町
太間天満宮:寝屋川市太間町
茨田蛇の池跡:寝屋川市木屋町
5世紀の初め、仁徳天皇の時代。淀川の洪水を防ぐために造られたという茨田の堤
 この時築造の困難な箇所が2ヶ所あり、天皇は夢に「武蔵の人強頸(こわくび)と河内の人茨田連衫子(ころもこ)の2人を以って河泊(かわのかみ)を祭れ」との神のお告げを得て、2人を川に沈めようとした。
 名指しされた2人はとんだ災難だったと思われるが、強頸は悲しみながらも人柱となり川に沈んだ。
しかし、衫子は身代わりに匏(ひさご)を水中に投げ入れ神意をはかり、死を免れたと伝わる。
 この2人の人身御供の箇所は「強頸の絶間」、「衫子の絶間」と呼ばれ、「強頸の絶間」は大阪市旭区千林町、「衫子の絶間」は寝屋川市太間町だといわれている。今回は寝屋川市にある「茨田の堤」の遺跡を訪ねた。

[参考資料] 『日本歴史地名体系(大阪府編)』 平凡社
         『現地解説碑』
茨田の堤(太間)-1 茨田の堤(太間)-2
寝屋川市太間町の淀川の堤の上に建てられている「茨田堤」碑。
「解説碑」には、『強頸の絶間と衫子の絶間の伝説の紹介と、淀川を2つの流に分け、その間に農地を確保したのが「茨田の堤」であり、その分岐点がこのあたりであった。』としている。また、土佐日記にある「わだの泊りの分れの所」もこの地点と推定している。碑は1974年(昭和49年)に建てられている。
太間天満宮 衫子絶間跡碑
太間天神社境内に建てられている「衫子絶間跡」の碑。「衫子の絶間」の伝説の紹介と実際の衫子絶間跡はここから400m東へ行ったところと推定している。この碑は1983年(昭和58年)の建立。
鞆呂岐神社 茨田蛇の池跡
「日本書紀」の皇極天皇の条に見られる「茨田の池」の所在地は、太間天神社から南に下がったところに池田町や平池町などの地名があり、この辺りとする説が一般的であるが、逆に北へ約1Km程行った木屋町にある鞆呂岐神社境内に「茨田蛇の池跡」の碑が建っている。この池は1936年(昭和11年)まで存在したとのことだが、「蛇の池」とは何かいわくがありそうな名前の池である。碑は埋立ての記念として1976年(昭和51年)に建てられた。

史跡-087/TTL-347

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